東京=ジ・エンド。
ウチに息子を東京の学校に通わせる財力なんてあるわけがないということは、滅多に働かず家で寝ているばかりの親父を見れば火を見るよりも明らかだった。
バブルの恩恵どころか、恥ずかしいことにその日食べる米もないという時も多々あったぐらいだから、万に一つの可能性もない。
しかし、いくら考えてもそれ以外の選択肢は頭に浮かばなかったから、僕の焦りは募るばかりだった。というのも、数日後には志望大学を申告しなければならなかったのだ。
思うようにならない家計よりも、こんなに早く人生を決めなければならないという学校の決まりごとに腹を立てていた、そんなある日。何気なく開いたパンフレットの片隅に突破口を見出した僕は、一度だけ親に相談を持ちかけた。
「ねえ、僕が東京に行ったらどうする?」
「……何ばしに?」
「いや、大学とか、進学で」
「はあ? 大学やったら福岡でよかろうもん」
「いや、福岡やったら将来なりたい職業になれんけん、東京の……」
「そげな金があるわけなかろうが」
面倒くさそうに身を起こし、テーブルに置いた煙草を右手で引き寄せながら、親父は話を終わらせようとした。しかしここまでは想定内、こっちには一発逆転の秘策があるのだ。
「やけんね、ちょっとこのページば見て」
僕はここぞとばかりに進学案内のパンフレットを差し出した。数日前に知ったこの制度。現実的にはこの手段にすがるしか東京へ行く道はなかった。
「……新聞奨学生?」
「そう。営業所に住み込みで朝晩の新聞配達をすれば、学費とか家賃とか全部払ってもらえる上に、小遣いまでもらえるって」
地元で進学するとばかり思っていた息子のために、親戚中に頭を下げて祖母が持つ小さな田んぼを売り払う下準備をしていたあの頃の親父に、この提案はどう映ったのだろう?
今となっては知る由もないが、決して快くは思っていないということは、いつもより深く胸に吸い込んだセブンスターの、赤細く燃える火種が雄弁に物語っていた。
「お前には無理に決まっとろうが」
紫煙で顔の半分を覆いながら、親父が吐き捨てる。あと数年で、僕も煙草を吸うような大人になるのだろうか。
「ばってん、何の迷惑もかけんやん」
一年中ほぼ休みなしで朝夕の配達と集金、そして拡張業務までもが課せられた新聞奨学生の募集要項に不安がなかったといえば、嘘になる。
むしろ親父の言葉は図星だった。体力的な問題よりも、楽しいことしかないと聞かされている「大学生」になった自分が、そんなストイックな生活を続けられるなんて、やる前から無理な予感しかしなかったのだ。
それでも、ここで引いたら終わりだという気持ちが僕を抵抗させていた。
親父の煙草が部屋の空気を淀ませる中、所在なさげなパンフレットが僕と親父の間をゆっくりと行き来している。無言のラリーは父と子の間に、後まで続く深い溝を掘り続けていた。
「福岡で新聞配ればいいんやないと?」
洗い物を終えた母親が早速の妥協点を持って駆けつけた。お母さん、そんな問題じゃないんだよ。ていうか、それだけは絶対に避けたい着地点なんだけど。
「お前は黙っとかんか!」
手っ取り早い弱者を見つけた親父が声を荒げた。一瞬、そんな親父を睨み返した母親の険しい顔は、僕を何年も苦しめてきた問題の象徴そのものだった。
遠い記憶の中にも刻まれた、言い争う両親の影絵。喧嘩するほど仲がいいとは言うけれど、聞かされるこっちはたまったものじゃない。
急におなかの底にだけ重力が圧し掛かるような、そんな感覚が今日も僕を襲う。この痛みから僕はいつ解放されるのだろう?
「新聞とかはともかく、東京にやら行かんでよかろうが」
「そうよ、あげな怖いところに何しに行くんね?」
こちらの心配をヨソに、いつの間にか息を合わせた二人の合体攻撃が始まっていた。攻撃ポイントは一点集中。もちろん、東京という街への反発である。
本音をいえば、僕だって行きたくはない。というのも、僕が行きたいのはテレビの中であって、東京ではないのだ。
福岡の片田舎で実家の半径5キロ程度しか知らずに育ってきた僕にとって、東京という街はテレビの中にしか存在しない世界だった。芸能人と一緒に仕事をする自分は想像できても、東京に住む自分となると、まるで現実味がない。山手線とやらの満員電車に詰め込まれる自分よりも、スタジオで芸能人と談笑する自分の方が、よっぽどリアルに感じられたのだ。
支離滅裂に聞こえるかもしれないが、当時の僕にとって東京はそれほどまでに遠く、そして未知の世界だった。
むかしむかし浦島は
助けた亀に連れられて
竜宮城へ来てみれば
絵にもかけない美しさ
乙姫様に歓待を受けることは想像できても、海底の竜宮城に酸素があるとまでは思えない。幼稚な揚げ足取りだが、僕にとっては芸能人と東京も、これと同じ感覚だった。
リアルとファンタジーの境界線が、よくわからない。そもそも自分が大人になること自体が、最大のファンタジーだった。
「東京行って、あんたは何になるんね?」
核心を突いてきたのは母親の方だった。これまで、何となく進学するということだけで簡単に済ませてきた僕の将来について、ついに本格的な話し合いをする時が来た。
将来の自分を両親に語る恥ずかしさは想像以上だったが、前もって覚悟だけはしていた。耳を真っ赤にしながら、必死で声を絞り出す。
「あの、なんていうか……テレビ局に入って番組とか作りたいんよ」
僕にとっては一世一代の告白だった。恥ずかしくてとても顔を上げられない。
しかし、これまで育ててきた息子がこんなことを考えていたとは、驚くと同時に多少は感心するんじゃないか? 前日のシミュレーションでそう期待しながら提出した僕の見積もり書は、すぐに両親からつき返された。
「なれたらいいばってんねえ……」
なぜか優しい笑顔を浮かべて、母親がこっちを見ている。その横でいつの間にか口角を上げていた親父が、半笑いで追撃の口を開いた。
「テレビ局やら、あげなとはお前、コネがなかったら入られんとぜ」
「そんなんわからんやん!」
とっさに言い返したのは、ずっと考えてきた夢を小馬鹿にされた気がしたからか、それとも、薄々感じていた世の中の仕組みを無職の親父に指摘された怒りなのか。
いずれにせよ、いくら反論したところで功を成さないという空気感だけは肌で即座に感じていた。
「早稲田とか慶応とか、そげな大学ば出たとしても、テレビ局に知り合いがおらんかったらまず採用されけんね」
「金出せば入られるような専門学校から、テレビ局にやら入られるもんか」
「わざわざ新聞配達しながら学校行って、それで入られんやったらどげんするとや?」
いつになく饒舌な親父に一矢報おうと言葉を探すが、どこにも見当たらない。
というのも、僕が候補に挙げていた大学は名もなき三流の私大だったし、専門学校に至っては一昨年できたばかりの新設校。行ったところでなんとなく無理だろうなという防衛本能はとっくに機能していたのだ。
芸能界への憧れだけで、そこに気づかないふりをしていたことは自分でもわかっていた。
そんな甘えさえも見透かされたようで、言葉が出ない。
膝の上に置いたパンフレットに踊る「マスコミ就職率100%」という謳い文句がじんわりと溶け出している。
ここが勝機と見たのか、親父が一気に畳み掛けてきた。
「だいたい、なんでお前はテレビ局にやら行きたいとや?」
今日は逃げられない。そう直感した僕は観念して白状した。
「……だって、お笑いとか好きやけん」
これしか言いようがなかったし、これが夢の全てだった。もうこちらからは何もありません。一刻も早くこの場を逃げ出したかったが、体も動かない。
もうとっくに冷めていただろう湯飲みのお茶を大きく一口飲み、いよいよ親父が最終コーナーに差し掛かる。
「お前がお笑い好いとうとは知っとうぜ。ばってん、みんな好いとろうもん」
「お前みたいなのは全国に山ほどおるっちゃなかとや?」
「そりゃテレビの世界とか、楽しかろうと思うよ。ばってん、みんながしたい仕事やからこそ、コネがなかったら入られんとぞ」
「あげなところに入れるやつは、最初から決まっとうみたいなもんばい」
バブルに背を向けられていた親父の言葉は、何もそこまでというぐらいの説得力に満ち溢れていた。そんなことだろうとは思い始めていたし、夢と呼ぶには拙すぎる妄想でしかなかったけれど、それでも真正面から解体されると、やっぱり悲しい。
しかし、それと同時に少しだけ安心したことも、また事実である。
学力、資金、コネ。必要なもの全てが圧倒的に足りない僕の夢は叶うわけがない。それでも、自分からはあきらめたくないという妙な意地は消えそうになかった。
そもそも、夢が叶わないのは誰のせいだ? それはロクに勉強しなかった自分であり、無職の親父であり、なんのツテもない両親のせいなのだ。
その上、東京に行かなければならないなんて!
まあ、色々あるけれど、結局は東京に行かなきゃならないんだから。
僕は行っても良かったんだけど、本当は怖くて行きたくはなかったけど。
それでも、僕は行くって口にしたからね。
行こうとは思ってた。行く気はあったんだ。
東京行きを両親に反対、もしくは説得されたという大義名分は、僕のちっぽけな自尊心を守るのに十分な防具となった。そしてこの日を境に、僕の目標は地元の大学への進学にすり替わる。
東京は、自分の夢が叶わないという現実を都合よく捻じ曲げる、絶好の「口実」になったのだ。
「お父さんが芸能人やったら良かったとにね」
いたずらっぽく笑った母親の一言が、家族会議の閉会を告げた。また少し不機嫌になった親父は、黙ってテレビのチャンネルを変え続けている。
やがて僕以外の誰かが作ったテレビを、僕はどんな気持ちで眺めるのだろう。
(撮影:隼田大輔)
(次回、2月18日更新予定)
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