自分と合わない人たちが遠ざかっていく!
炎上をしていく中で、更なる気づきがぼくの中に訪れます。
いやはや、これをいうと、また炎上してしまうのでしょうが……。ぼくは、炎上すればするほど、「二流以下の人たち」が自分の周りから離れていくと気づいたのです。
そのことに気づいたのは、先ほど紹介した「『面白い人ほど会社を辞めていく』3つの理由」をアップした、2011年の9月頃です。この記事をアップしたとき、たまたまフェイスブックのタイムラインで、「正直この人とは気が合わないなぁ……」と思っていた知人が、ぼくのことを批判しているのを見かけたのです。
彼は、ぼくが見ているにもかかわらず、「友だち限定」の投稿にて、ぼくへの嫌悪感を露わにしていました。投稿の文面を見ていると、彼はぼくを「友だち登録」したことを忘れているようです。うーん、じつに迂闊な……。「ちゃんと見ているんですけどね……」と思いつつ、ぼくはそっと、友だち解除ボタンをクリックしました。
奇しくも、こうして「友だち」の縁を切ることができたのです。ぼくも彼とは気が合わない予感がしていたので、お互いにとってハッピーなことでした。
こうしたこともまた、両手では数えきれないほど起こっています。どうやら、自分がなんだか好きになれない人たちは、やっぱりイケダハヤトのブログを読むと、ぼくのことを「気に食わない」と思うようなのです。
これは言い換えれば、ブログを書くことで、「仲良くなれそうもない人たち」を、うまく遠ざけることができるということです。イメージとしては、これは磁石のようなものでして、自分が「オレはS極だぞ!」と強い磁力を帯びれば、こっちからわざわざ縁を切らなくても、あちらから嫌悪感を抱いて離れていってくれるのです。
「人に嫌われることも厭わない」そんな覚悟を持っている人間にとって、こんなに便利なことはありません。彼らは粘着質にネット上で攻撃をつづけるかもしれませんが、それによる実害は大きなものではないので、スルーして一向に構いません。ぼくは炎上すれば炎上するほど、人間関係が自分の性格にふさわしいものになっていくことを感じました。
炎上=新しい価値観の提示
こうして炎上を受け入れるなかで、ぼくは「いまこうして炎上しているということは、それは世の中に新しい価値観を提示できたという証拠ではないのか」と気づくことになります。『年収150万円で僕らは自由に生きていく』(星海社新書)という、いかにも炎上しそうなタイトルの本を出版した、2012年の11月頃のことです。
この本では、「ぼくらは低コストでも幸せに生きていけるし、豊かな社会をつくることもできる。そして何よりこの価値観を持てば、多くの人が色々なことから自由になれる」という価値観を提示しました。
タイトルのキャッチーさもあり、読まずに批判する人も数多く出現し、例によって炎上しました(気になる方はインターネット上の書店であるアマゾンのレビューをご覧ください)。
ぼくは物書きを生業としている、いってみればアーティストに属する人間です。ブロガー風情が何をいう……とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、アーティストというのは、世の中に新しい価値観を提示してなんぼの職業です。
まったく新しい表現を切り拓いたセザンヌ(*1)、マーラー(*2)、岡本太郎……歴史に残るアーティストたちは、世界、社会を変える新しい価値観を提示してきた人々です。少なくとも、ぼくは、プロのブロガー、つまり社会に何かのメッセージを届けることを職責としている人間として、世の中に新しい価値観を提示できるアーティストでありたい。そういつも願っています。
(*1)セザンヌ……19世紀に印象派の画家として活躍し、近代絵画の父と称されたポール・セザンヌのこと。セザンヌの登場以前と以後で、ヨーロッパの絵画芸術が決定的に変化したといわれるほど芸術史に強烈なインパクトをもたらした。
(*2)マーラー……19世紀後半に指揮者としてウィーンで活躍したユダヤ人の作曲家、グスタフ・マーラーのこと。常に新しい表現に挑戦し、壮大なオーケストラや声楽パートを多用したことで有名。交響曲の大家であり、今やクラシック音楽で最も人気のある作曲家の一人。
「新しい価値観」というのは、その新しさゆえに、同時代においては決してすぐには受け入れられないものです。ある意味、誰もが「いいね!」ボタンを押すようなものは、誰もが理解可能であるという意味で、何も新しくないのです。本当に新しいものは、同時代に生きる大半の人にとって理解不能なものなのです。実際、セザンヌもマーラーも岡本太郎も、その時代に「こんなものは芸術ではない!」と批判を受けています。
つまり、炎上するということは、すなわち「それなりに新しい価値観を提示できた」という証左になりえるのです。
ぼくが『年収150万円で僕らは自由に生きていく』で提示した価値観は、一部の人には受け入れがたいもので、数多くの批判もいただきました。が、それはある意味「予想どおり」のこと。だって、こちらは新しい価値観を提示しているつもりでいるのですから、すんなり受け入れてもらえるほうがおかしいわけです。
そう考えることができるようになってからは、ぼくは炎上を恐れるどころか、炎上をするたび「新しい価値観を提示できてうれしい」と感じるようになりました。ぼくは世界を取り囲む壁にまたひとつ、爪痕を残すことができたのです。ぼくは、その爪痕がじわじわと広がり、いずれ世界を拡張してくれるものなんだと、信じています。
そんなわけで、炎上というのは、よくよくその影響を観察してみると——心理的ダメージさえ乗り切ることができれば——実はいいことずくめなことだったのです。
一流の人たちが目を向けてくれて、気の合わない人たちが自然と離れていき、新しい価値観の提示という役割も担える。社会を拡張できる可能性のある、新しい提案も出しつづけることができる——。
「炎上しないのって、もしかして損じゃないのか?」と、炎上を繰り返していくなかで、ぼくはそのことに気がついてしまったのです。
善い炎上、悪い炎上
なお、ぼくがここで提唱する「炎上」は「自分の素直な考えを、空気を読まずに発言して、賛否両論を集めてしまう」という現象を指しています。この点は、よく注意していただきたいと思います。単に炎上すればよいというわけではないのです。
炎上には、「善い炎上」と「悪い炎上」があります。
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