無想庵物語(山本夏彦)2

無想庵物語(山本夏彦)評の第2回目です。山本夏彦の『無想庵物語』は、作家・武林無想庵による奇書「むそうあん物語」を元に書かれました。なぜ山本夏彦はこの時代に埋もれてしまった作家の作品「むそうあん物語」を題材にしたのか。そこにはふたりの意外な関係性がありました。

『無想庵物語』と『むそうあん物語』


無想庵物語(文春文庫)

 武林無想庵とその作品が当時話題になったのは、同作品を発表した翌年、無想庵の妻・文子が交際のあった日本人男性にパリで発砲される事件があったからだ。スキャンダラスなこの事件は日本に伝えられ世間の話題となった。文子は無想庵を捨てて複数の男をもてあそんでいたことの結果でもあった。幸い、文子は一命を取り留めた。長生きもしている。

 文子は旧姓、中平。1888年(明治21年)、四国松山に生まれた。18歳の初婚で3人の子どもをなしたが、美人で頭もよいと自負し、離婚してジャーナリズムに活躍の場を探す。1916年(大正5年)、「中央新聞」の婦人記者となる。記事は話題となった。そのころから自分が使える男なら誰でも手玉にとるようにもなる。無想庵もそうした一人である。満州を点々としたのち、フランスに行けるということで無想庵と結婚した。こうした経緯は本書『無想庵物語』に詳しい。読みづらいほどに異様に詳しいと言ってもよい。そもそも題名からして『無想庵物語』なのだからということもあるが、別の経緯もある。

 武林無想庵には『むそうあん物語』という主著が存在する。前回、「主著と呼べる作品もない」と言ったことに矛盾するようだが、『むそうあん物語』はおよそ書籍と呼べるようなものではない。武林無想庵がその長い生涯に著した文章や翻訳などを無分類に投げ入れたライブラリーのようなものであり、その大半は私事の記録である。それなのに日付で整理付けられているわけでもない。全44巻。ほかに別冊『武林無想庵追悼録』、『武林無想庵盲目日記』、『イヴォンヌ』の3巻もある。1巻ごとの収録文字数は少ないとはいえ、全部で原稿用紙6600枚以上になる。村上春樹の『1Q84』の2巻までが約2000枚だから、その3倍ほどである。それほどの大著でありながら全体の統一性もなく、ライブラリーとしての秩序もない。ただ、細部だけがあり、細部にはどうしようもない虚無的な思索が示されている。奇書のようなものである。今回、私は比較的統一性の高い巻『イヴォンヌ』を通読し、その知性にある種の驚きも感じたが、物語自体は時系列も構成もめちゃくちゃな印象も受けた。山本夏彦もそう考えていた。

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