後編】太宰はもう「卒業」しました

戦後の没落貴族の姿を描いた、太宰治の代表作『斜陽』。太宰の死の半年前に刊行されたこの作品は、当時の愛人・太田静子の日記をベースに書かれたものでした。そして刊行直前に、彼女と太宰との間に私生児として生まれたのが、作家・太田治子さん。 父の顔を見ることなく、母の手一つで育てられた太田さん。『斜陽』の文中で「私生児と、その母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」と語られた私生児のその後は、どのようなものだったのでしょうか。インタビュー後編では、太田さんのこれまでの半生をおうかがいしました。

17歳、「生い立ちの記」で作家デビュー

— 今回は、太田さんの子ども時代からこれまでのお話をうかがいたいと思います。お母さまとの最初の記憶を覚えていらっしゃいますか?

太田 あれは3歳10ヵ月のときですね。下曽我の山荘 ※1 を出て、東京に行くために母と手をつないで坂道を歩いたことを今でもよく覚えています。母が着ていた着物の、黒い椿の花模様の羽織がとてもきれいでした。私は東京に行けるのがうれしくてうれしくて、はしゃいでいたけれど、母はこれから病院で大変な手術を受けることになっていて、心の中では死を覚悟していたそうです。
※1 太田静子が暮らしていた、神奈川県小田原市下曽我の雄山荘。太宰も訪れたゆかりの地として知られていたが、2009年に焼失。

— そんなにお体の調子が悪かったんですか。

太田 大病でした。母は自分がもう死ぬつもりで、私を東京の練馬のおじの家に預けたそうです。最初は母が恋しくて「ママに会いたい」と毎晩泣いていたんですが、3ヵ月するとそんなことも忘れておじの家になじんでいましたから、母が無事に帰ってきたときは柱の陰に隠れてしまって。それが母にとってはずいぶんショックだったみたいですね。

— 子どもって、そういう薄情なところがありますよね(笑)。

太田 ねえ。それに、私はおじの「通(とおる)おじちゃま」のことが大好きだったんです。やさしくて、いつもニコニコ穏やかだけれど、ここぞというときにぴしゃりと叱る。盲導犬みたいな人が好きなんです。よく人から「太宰さんみたいな人が好きなんでしょう?」と言われるのですが、とんでもない。

— それからは二人で暮らしたのですか。

太田 それから3年ほど、葉山に引っ越した通おじちゃまの家で療養生活を送ってから、私が小学校に入るときに倉庫会社の食堂で炊事婦になって、女手ひとつで私を育ててくれました。

— 本を毎日少しずつ古本屋に売ってやっとパンを買えたり、一食が醤油かけご飯だけだったりと、大変な暮らしだったそうですね。

太田 それでも母一人、子一人の生活は楽しかったんですよ。当時は「三丁目の夕日」の時代でしょう。それが普通でしたし、私を生んでからどんどん強くなった母は本当に、太陽のように明るくて。いつも愛されて守られているという安心感がありました。

— 作家になろうと思ったのはいつごろからだったのでしょう?

太田 文章を書くのは好きでしたけれど、作家になりたいという気持ちは特別なかったんです。17歳の時に「生い立ちの記」という手記を書いて、それが評判になったのがきっかけでした。太宰の娘、しかも愛人の娘が貧乏して育ったという内容で話題になったと思うのですけれど、当人としては全然、特別な生活だとは思っていませんでしたから。

— そもそも、どうして手記を書くことになったのですか。

太田 ちょうどそのころ、瀬戸内寂聴さんが私に取材したいとのことで、「軽井沢に来ませんか」と連絡をくださって、ご自宅にうかがったんです。女流作家にお会いするのは初めてでしたけれど、すごくやさしいかたでした。その時にお会いした新潮社の編集者から、手記を書いてくださいとお手紙をいただいたんです。「ありがとうございます」とお返事は書きましたが、気が進まなくて、うっちゃっていたんです(笑)。そしたら4か月経ったある日、その編集者さんが玄関で待っていて……。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
太宰治『斜陽』のその後—作家・太田治子インタビュー

太田治子

私生児と、その母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです――多くの名作を残し、いまもなお絶大な人気を誇る作家・太宰治の出世作『斜陽』。それは当時の愛人・太田静子の日記をベースに書かれたものでした。そし...もっと読む

関連記事

関連キーワード

コメント

sadaaki 太田治子さんのインタビュー、後編です。『斜陽』のモデル・太田静子さんと太宰治の娘さんです。 4年以上前 replyretweetfavorite