ロボコップ 
ロボットと人の境界線

2014年最初の「およそ120分の祝祭」が取り上げるのは、ポール・バーホーベン監督の『ロボコップ』です。作中に見られる幾つもの境界線に着目して、この映画のユニークさなどが綴られています。ぜひ、ご一読ください! 今年はリメイクされた『ロボコップ』も公開される予定で、そちらも楽しみですね。

中学一年の頃だった。とつぜん授業中の教室が騒がしくなり、窓の外を見ると、校庭に雨と晴れの境界線ができていた。校庭には激しく雨が降っているのだが、ある部分から先は定規で引いたようにからっと晴れており、地面も乾いている。はっきりとした境界線が、教室にいる誰の目にも明らかに存在しているのだ。雨と晴れに境界線があるという話は聞いたことがあったが、これほどに明快であるとはおもわなかった。普段はむだな口をきかない初老の男性教師も、「おっ、これはすごいな」と、めずらしそうに校庭を眺めていた。ずいぶん非現実的な光景に感じたことをよく覚えている。それいらい僕は、雨が降るたびに、雨と晴れを分けるはっきりとした境界線がどこかの場所に発生しているはずだと想像するようになった。

僕は物心ついたときから、境界線について執拗に考える子どもだった。状態Aと状態Bを分かつものは何かを、飽きもせずに考えた。境界線に関する思考はひとりでに湧いてきて、止めようにも止められない。たとえば僕は、眠りの境界線はどうすればわかるのだろうと悩んでいた。布団に入るといつの間にか眠ってしまうため、自分はいったいどの瞬間に「眠りに入った」のかがはっきりしない。目覚めた状態と眠った状態の境界線はどこにあるかが知りたかったのだ。また、どのていど体調が悪ければ、学校を休んで許されるのかも気になっていた。微熱と風邪の境界線が知りたかったし、どのような条件であれば学校を休めるのかを正確に定義してほしかった(僕は気が弱かったため、どんなに体調が悪くても親に言い出せず、がまんして登校するような子どもだったのだ)。子ども心にも、あまりに境界線のことを気にしすぎるのは不健康であるようにおもったが、境界線について考えることは止められなかった。

精神科医の春日武彦は、境界線についていくつかの文章を書いている。なかでも僕が気に入っているのは、目黒区と渋谷区の境界線上にまたがって建てられたビルについての記述だ。春日は「どちらの区にこのビルのオーナーは税金を払っているのだろう、などと余計なことが気にかかる」と述べている。「散歩のたびに、いつも区と区の境界線を意識してしまう。たんに行政上の都合で線が引かれているだけのことだが、それをいうならば子午線だとか赤道だとか国境にしても目に見えるようなラインが引かれているわけではないのである。だが、漠然と地図を頭の中へ思い描きながら、まぎれもなく存在しているはずの境界線を踏み越えることがなぜか嬉しい」*1。よくわかる、と僕はおもった。ふしぎと境界線は人の思考を刺激するものなのだ。

映画『ロボコップ』(’87)が興味ぶかいのも、ものごとの境界線についてのさまざまな問いを発しつづける点にある。作品を初めて見たのはまだ十代の頃だったが、まず何より、それまで僕自身が抱えてきた境界線についての思考に応えるようなモチーフの数々に心を奪われた。ロボコップはロボットか、人間か。「法的に死んでいる」警官を、ロボコップの素材として利用することは許されるか。警察や刑務所といった、公共性の高い分野を民営化するべきか。寿命をいちじるしく延ばす医療技術で、人々の生はどう変化するのか。かくして『ロボコップ』にはさまざまな境界線があらわれるが、いずれのケースも、ただちには判断のつかないものばかりだった。

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また、警官たちが男女を問わず同じロッカールームで着替えるという描写も、高校生の僕を悩ませた。どうやら、劇中の近未来においては羞恥の境界線が消え去り、男性も女性も共に屈託なく裸になるらしいのだ。監督のポール・バーホーベンにとっては「男女の平等」を意味する重要な場面のようだが、だからといって、こんなにあけっぴろげな世界にはとてもついていけそうにない。バーホーベンは『スターシップ・トゥルーパーズ』('97)でも、同じ軍隊に属する男女が共にシャワーを浴びるシーンを描くが、まったく楽しそうではなく、僕はできるならこの未来には行きたくないと感じたのだった。『ロボコップ』の舞台となるデトロイトの町は、まるで希望のない暗澹とした場所に見え、観客はみな「越えるべきではない境界線の向こう側へ進んでしまった世界」の不安を共有させられる。

ロボコップの存在は定義がむずかしい。ロボコップは「製品」(product)と呼ばれ、生きた存在とはみなされない(素材として使用された男性警官も、法的には死亡している)。しかし、細胞維持のためにペースト状の栄養剤を摂取する必要があるロボコップを、完全なロボットと呼ぶことには無理があるだろう。ロボコップが睡眠中に夢を見るシーンなども、彼を完全な機械とは呼べないことを裏づける場面だ。全身が金属で覆われていながら、鼻の下からあごにかけて人間の皮膚が無防備に露出したロボコップのデザインには、「人間でもロボットでもない」という制作者の意図が強調されている(銃撃戦があるたび、あの口元に弾が当たってしまわないかと心配してしまう)。結果的にロボコップは、人間でもロボットでもない存在として描かれることになるのだ。

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およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

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コメント

campintheair カレー大好き人間こと僕の書いた『 約4年前 replyretweetfavorite

Tomohiko_Yoneda 誰が何と言ってもポール・バーホーベンは巨匠、 約4年前 replyretweetfavorite

studious_yama 境界線と聞くと反応してしまう一人。 "@cakes_PR: 2014年最初の「およそ120分の祝祭」が取り上げるのは、ポール・バーホーベン監督の『に着目していきます。 https://t.co/872HF2ik4M" 約4年前 replyretweetfavorite