私市陶子[15:10]
そのとたん、それまで私の隣で半ば寝そべるような姿勢でリラックスしていました彼女は、
「……うぎゃあああ!」
と、まさしく絹を引き裂くような悲鳴をあげますと、後部昇降口から跳び出していったのです。
「アキホっ!」
前部昇降口から乗り込んで来た茶髪の女の人が、激しく唸りました。その荒い鼻息が、私には感じとれました。やはりタバコの吸い過ぎはよくないことです。臭いがこんなにも遠くからはっきり伝わるのですから。
「待てこのくそやろお!」
などと叫んで、茶髪の人はそのまま車内を駆け抜け、昇降口から飛び下り、あっというまに道路の彼方へ追いかけてゆきました。
ふと、その時に私は憶い出したのです。あのファブリという男、あの恐ろしい男には匂いがなかったということに。先生のような素敵な匂いも、父さまやお祖父さまのような外国製の整髪剤の匂いも、世の男性がお髭のところにつけるアフターシェイブとかいうものの
『次は終点、吉祥寺、吉祥寺──』
アナウンスの声に、私は我にかえりました。ああ、どうしましょう。終点です。ここで降りなければいけません。けれど、その後は? 今の私には小銭すらもありません。お財布も、それどころか荷物が一切見当たりません。どこに置き忘れてきたのでしょうか。
そして、ああ先生。
一体どうしたことか、私は先ほどから裸足なのです!──
徳永準[15:10]
ネットに入る寸前で、ぼくの指が止まる。
手の中のケータイが震えている。電子音が響いてる。
電話だ。
電話がかかってきてる。
「あら、ほんまやねえ」
どうしよう?
「どうしようて、そらジュンくんが決めな。それ、もうジュンくんのもんなんやし」
でも決める前に、ぼくの指はもう勝手に通話ボタンを押している。無意識の、反射的な動き……電話が鳴ったら、とって返事をするものだから。
すっかり体にしみついた約束事。電話は出なくちゃいけません。ケンカをしてはいけません。勉強しなくちゃいけません。困っている人がいたら、助けなくちゃいけません。なぜ? 誰も深く考え込んだりしない。だってそういうものだから。そういうふうに教えられたから。たった今、ぼくの指がボタンを押したように。それとも単に、電話の音がうるさかったから……だからボタンを押したんだろうか。
もしもし?
『──やあ。そちらはどなた?』
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