徳永準[14:04−14:10]
ぼくは走っている。逃げている。
どこから? 何から? わからない。胃が痛む。走っている。伊隅の声がする。たぶん伊隅のだと思う。
ぼくは逃げている。ぼくのブログから。漫画喫茶から。大勢の人の声から
電車がやってくる。ということは、ここは駅なんだろうか。飛び乗った。いつのまにか、手にはあのトクトクきっぷが握られている。ぼくは逃げている。どこまでも線路は続いてゆく。芸術はすべてを自由にする。
後ろの車両から、伊隅が近づいてくる。視線、視線、乗客たちの視線。やめろ。ぼくを見るな。ぼくを探すな。
誰かの声が追ってくる。どうしたんだよ徳永、急に走り出して。びっくりするじゃないか。今度はどこへ行くつもり? 寒い、寒い。ぼくは逃げている。走っている。先頭車両、前は線路。ガラス窓。流れ去る景色。深い森がある。あの中へ、ぼくは行くような気がする。
誰かにぶつかる、手がさしのべられる。白い手、細い腕。かわいい女の子、あるいは女の人の笑顔。赤いコート、チェック模様のスカート。なぜか二人に見える。同じ顔、同じ服。完璧なコピー。どうやらぼくは、ほんとうにダメになってしまったみたいだ。
「──あれえ、どないしはったん? だいじょうぶ?」
二重写しの彼女が、同時にしゃべる。耳に心地よいイントネーション。東京とはちがう。ぼくの日常とはちがう。この街のものでさえなければ、どこでもいい。
ぼくは倒れ込む。後ろから伊隅の声がする。どうしたんだ徳永。ジャケットどこに忘れてきたんだよ。もう勉強はしないのかい。もうすこしがんばれば大丈夫。伊隅以外のたくさんの声。がんばればいいのよ、準。ここで負けたらぜんぶ無駄よ。無駄無駄無駄無駄。ファラオさんの涙。
ぼくは倒れ込む。
赤いコートの彼女が双子だということを理解する前に、ぼくは意識を手放してしまい、そしてなにもかもが真っ白で暗くなってゆく。
温井川聖美[14:02−14:14]
十二階の廊下の南端、休憩スペースのソファに座っていたら、ヒロミが近づいてきた。
「おねーちゃん、あの……これ、ケータイ。おねーちゃんの」
彼女の白くて繊細な手の中から、あたしの無骨な機械が登場する。あたしは彼女を見上げる。母さんたちの姿は見えない。看護師たちもいない。一進一退するおばあちゃんの状態を告げる電子音から遠く離れて、あたしとあたしの愛くるしい妹だけがこの狭い空間に配置されている。
その一瞬の感情を、いったい何と表現しようか?
無理だ。なにしろ今やあたしの心の歯車は、目の前の妹だけでなく、母さんや携帯電話とも絡み合ってしまったのだから。そこまで便利な単語がこの世にあるとも思えない。
母さんが勝手に誤解して取り上げていったケータイ。それは、あたしが自分で取りかえすはずのものだ。白馬の騎士じゃないけれど、あたし自身が剣をかざして、悪い竜の城へと飛び込んで、見いだすべき宝物だ。
その
そしてあたしは、ずいぶん派手に壊れている。あまりに何度も衝突したのでバンパーもすっかり曲がっている。曲がり具合は、すっかりなじんでしまった。
あたしが母親と喧嘩をするのは、あたしが曲がったり壊れたりしているという事実の確認作業でもある。あたしが、あたし自身であるという事実の。そして、あたしの母親があいかわらずあたしの母親でしかない、という現実の。
でも、どうしてそれをあんたが代行するの、ヒロミ?
どうしてあたしと母さんとの口喧嘩を、あんたが勝手に未然に防止するの?
あたしが母さんを嫌う気持ち。
それを奪う権利なんか、あんたにはない。これっぽっちもない。
あたしの言い分はたしかに無茶苦茶だ。ヒロミだって姉と母の口論を聞きたくないだろう、それはあたしにもわかってる。あたしとあたしの母親が始終ニコニコして一緒にチーズケーキでも焼いていれば、彼女は(それから父さんと、むこう三軒両隣の家族と、その他御近所を通行中の皆さんも)とってもハッピーになるだろう。
でも、そうはならない。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。