人生をかけて「生」と向き合った小説
自分はなぜ生まれてきたのか? なぜ生きているのか? そうした問いに関わりなく生きていける人が多数なのだろうか。あるいはそれなりに自分の答えを見いだして生きているのだろうか。私はといえば、皆目わからない。もう55歳を越え、自分の年齢まで生きることができなかった人たちの、その生の形を見つめることもできるというのに、いまだにわからないままでいる。そうしゃーしゃーと言ってのける自分を恥ずかしいとも思う。私は凡庸な人間なので、生の意味をそのときおりに都合よくごまかす。それでも、もの心ついたときからその問いはあった。消えなかった。思春期と呼ばれる時期、青春と呼ばれる時期を過ぎても、この問いは自分の存在の根幹に在り続け、苦悶をもたらしてきた。なんとしても解きたい。自分はなぜ生まれてきたのか? なぜ生きているのか?
あまたの書籍を自分なりに読んだ。この問いに答えようとした書籍が少なくないことを知った。ある意味、古典と呼ばれる書籍はすべてそれに答えようとしているとも言える。デカルトの『方法序説』(岩波文庫)もその一冊と言っていい。『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)もそうだろう。だが古典はそれなりに様式めいた装いをして、人の問いの前に素裸で向き合ってくれることは少ない。その点、たった一人、素裸で、人生をかけて傷つきながらこの問いに向き合った本は、半村良『妖星伝』以外に私は知らない。
それだけで熱い思いがこみ上げてくるのを留めえない。だが残念ながら、そして先見的にわかっていたことであるが、この問いには答えというものはない。この小説を読んでも答えは、出ない。だからこそかもしれない。精神的な血を流し続けこの問いに向き合った半村良という人がいたことに言いしれぬ感謝のような感情を覚える。少なくともこの問いの重要性は理解できるようになったからだ。それは、彼自身、他書でこう述べていたことに似ている。『人生ごめんなさい』(集英社)より。
子供のとき『少年の町』という映画を観に連れていかれて、映画が終わったら、泣きすぎて、顔が風船みたいに腫れていたんだ。それからすっかりこりちゃって、劇場では観れなくなってしまった。
『スター・ウォーズ』だって観て泣いちゃうし、『フラッシュ・ゴードン』だってそうだ。どこがどうだからって泣いているんじゃない。あれをこしらえている連中の心根が嬉しくて泣いちゃうんだなあ。
この言葉に触れたのは私が25歳のころだった。目頭が熱くなったことを覚えている。30年も前になる。今になってみればわかるが、もう取り返しの付かない青春の蹉跌のさなかのことだ。私も『フラッシュ・ゴードン』の映画が好きだった。クイーンの音楽もよかったが、シェークスピア劇を連想させる豪華な演出の壮大な馬鹿ばかしさが嬉しくて泣けた。その心根を持ちながら生きて老いてもよいのではないか。私は半村良の言うことはわかっていた。1975年から2年おきに刊行されていた、横尾忠則の装幀が印象的な妖星伝の、その第六巻までも、もう読んでいた。
第六巻の跋文とも言える「艱難妖星伝」で半村はこう語っていた。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。