経営者と文学者という二つの顔
西武百貨店を中核としたいまはなきセゾングループの総帥・堤清二(2013年11月25日没、86歳)が、辻井喬のペンネームを持つ詩人・小説家でもあったことはよく知られている。彼は経営者と文学者と二つの人格をいかに使い分けていたのか。気になって直接本人に聞き出そうとした人も少なくない。
たとえば、タレントの楠田枝里子は対談の席上、堤清二と辻井喬とのあいだで時間感覚の違いはあるのかと訊ねている。これに対し堤は《違いますね。違うから、同じ時間帯で共存できるんです》と答えている。
《本当の意味でのタイムシェアリングというのは、何時までが堤の時間で、何時からは辻井の時間というのじゃない。同じ時間の中で、こっちから取り出せば辻井になって、こっちから取り出せば堤になるというのが、本来のタイムシェアリングだと思いますね》(『堤清二=辻井喬対談集』)
たとえば、対談で堤清二として話に集中していても、辻井喬という人格は相手の表情やその変化を頭のなかに入れていて、あとから文章で描写することができるというのだ。
これは経営者として現役だった頃の対談だが、さらに時代を下って、セゾングループ解体後の2008年、社会学者の上野千鶴子との対談では、《時と場合によって、どちらかの名前を使い分けて世を欺こうなんて、一度も考えたことはありませんよ》と語っている(『ポスト消費社会のゆくえ』)。
使い分けるも何も、堤清二と辻井喬が同一人物であることは公然の事実であったし、文学の世界でもビジネスの業界でも、孤立したり損をすることが何度もあったようだ。
《文学周辺の世界では、「(いくらエラそうに言ったって)だって、堤だから信用できないよ」みたいな感じの判定意見、ビジネスの業界では、「あいつ、変なもの書いてるそうだけど、大丈夫かね」みたいな変わり者扱い》(前掲書)
愛人だった母を父と結婚させる
そもそも堤が初めて辻井喬のペンネームを用いたのは、1955年に『不確かな朝』という詩集を出版したときだった。これはその少し前、肺結核で療養中に書きためた詩をまとめたものである。ペンネームをつけるにあたり彼は、まず堤と同じく「つ」で始まる漢字のなかから選ぶことにした。
《で結局、辻というのは簡単でいいなと。喬というのはわりあいに好きな字だったので、辻喬にしようか、だけど二字だとちょっと短すぎるしというので、合成語です。だから意味がない》(『昭和という時代 鈴木治雄対談集 下』)
ペンネームを使ったのは、詩を書いていることは両親に内緒にしていたからだ。だが、1961年に出した詩集『異邦人』が室生犀星詩人賞を受賞、新聞に顔写真つきで紹介されたおかげで、ばれてしまったという。
堤清二の父親・堤康次郎は、西武鉄道グループの創業者であり、政界でも活躍した人物だ。奔放な女性関係で知られた康次郎は、4人の女性とのあいだに五男二女をもうけている。堤家の二男にあたる清二の上には姉と兄がいるが、3人とも母親が違う。姉は康次郎と最初の妻とのあいだに、兄は内縁の妻とのあいだに生まれた。1927年に清二が生まれたとき、康次郎はまだ最初の妻と別れておらず、清二の母親は愛人のひとりにすぎなかった。のちに正式に結婚したとはいえ、長らく苦労した母を見ながら育った清二は、自然と差別に敏感になった。東大在学中に、同窓生の渡邉恒雄(現・読売新聞グループ会長)と氏家齊一郎(のちの日本テレビ放送網取締役会長)に勧められて日本共産党に入党したのも、その動機はマルクス主義ではなく反差別の思いからだったという。
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