オサリバン・愛(まな)[12:09−12:30]
遅刻だ遅刻だ遅刻だあ!
といっても『不思議の国のアリス』のウサギじゃないのよ。どっちかてえと水戸黄門のうっかり八兵衛みたいな。てえへんだテエヘンだ、遅刻ですぜ親分。ってこれは銭形平次か。
ちなみに『アリス』を読んでくれたのはパパで、水戸黄門と銭形平次が好きなのはお母ちゃんのほうね。
でもパパは英語とアイルランド語のちゃんぽんで読んでくれたんで、さっぱりわからんかったんよ。ていうよりか、アタシゃもともと日本語オンリーですぜ。よく友だちから、ハーフだからいいわよねーとか、英語ペラペラなんでしょーみたいに言われるけどさ。家んなかではパパ、英語めったにつかわないし。せいぜいお酒飲んで歌う時くらい。アイルランド語だってホントはちょびっとしかわかってないらしいし。
だいたいダブリンから日本にふらっとやって来て、お母ちゃんに惚れて浅草に居座って、おじいちゃんとおばあちゃんにお百度参りして、以来かれこれ二十年。ずっと日本語ばっかだもん。あやしいもんだぜ、パパの英語力なんて。アタシの宿題もぜんぜん手伝ってくんないし。
まあ半分は、お店の手伝いで忙しいってのもあるんだけどね。おじいちゃん、つまりお母ちゃんのお父ちゃんは由緒正しい四代目、まだ現役でがんばってて、浅草の
ちなみに、お店は由緒正しいけど、ちっちゃいんよ。だから楽じゃないの。不景気だし、いくら有名な観光地っても競争相手はいくらでもいるし。おまけにアタシを筆頭に食べ盛りの子供が五人。夫婦仲良すぎですよ、キミたち。
あ、いま気がついたけど、もしかしてパパが英語つかわないのは、おじいちゃんに気に入ってもらいたいため? まだ修業期間だからってことで? うーん、そうだとしたらすごいかも。海より深い、お母ちゃんへの愛情。いや、今日まで気づかなかったアタシも相当すごいけど。
ともかくそんなわけで、我が家の中は異文化交流というよりかほとんど異種格闘技、家族九人がもーたいへん。
アタシも稼がないと、ほんとにもーどうなっちゃいますことやら。
それでは、そんな勤労少女であるところのアタシが現在おちいってる苦境の一部始終を、早回しで再生してみましょう。はいキュー。
そうそう、だから遅刻しそうだったのよアタシ。すべてはそこから。
大晦日のお昼、JR上野駅前の歩道橋を、アタシは収録に間に合うべく全力疾走してた。ここんとこ仕事がつまってて睡眠不足で、もう足はへろへろ、頭はくらくら。
そしたらケータイがブーンって鳴ったの。もしかしてまた弟のどっちかが屋根から落ちて大ケガ? とか思って、アタシあわてて画面を見たのね。
件名:──
ねー、へんなメールま
わってきたよミナちゃ
んから。なんか自殺予
告してる人がいるんだ
って。
>みんな
>これまでありがとう
>永遠にさようなら
>今日でおわかれです
>ぼくはこのままでは
>壊れてしまいます
>だれかが支えてくれ
>なければ
なんかのおまじないで、
たくさんの人につたわ
れば自殺とまるんだっ
て、だからみんなに転
送しといてってさ。
それからもう一通。
件名:──
さっきいいわすれちゃ
った。初詣どうする?
もし仕事はいってない
ならユコとかミナとか
キッチも
ら、昼くらいに。よか
ったら来てねー?
なんじゃこれ。いや、初詣のことはいいとしてよ。自殺? 予告? おまじない?
なんで?
まず、自殺したいって気持ち。
アタシさっぱりわかんない。
そりゃ生きてくのはつらいかもしんないけどさ。お金がないとか、不景気だとか、お小遣いが毎月五百円とかね。でも、いきなり死ぬってのはなあ。
そっちのほうが苦しいよーな気がするんですけど。
べつに宗教がどうとかいうんじゃないけど──でもなあ、やっぱりなあ。
まあとにかく緊急事態じゃなくてよかった、これで無事に年が越せるわい、診察代もバカにならんからね最近は、とか思ってケータイしまおうとしたら、一円玉が落ちてったのよ。
アタシのポシェットから。
歩道橋の階段を、ポンポンポーンとバウンドしながら。
一円を
すなわち。お金を手に入れようとおもったら、そのいち、まず働いて稼ぐ。そのに、使わない。そのさん、なくさない。
たとえそれが小銭であってもよ。
だからアタシが大切な一円ちゃんを求めて階段を三段とばしで降りてったとしても、いったい誰が責められるでせうか?
十二段目でようやく追いつき、さっと手を伸ばしたら──あきゃあ、アタシの大事なお守りが! セカンドバッグの中から! ああ落下していくあああ!
って今度はアタシが、アタシが! 踏み外して滑り落ちて尻餅シリモチいわわわわああああ!
……ええ年こいた女子高生がケツさすりながら歩道橋を這い上がってくとこは、あんましキュートじゃないんで、カットするとして。
とまあ、これが『現在おちいってる苦境の一部始終』なのね。とほほ。
ええい、それもこれも全部あの自殺予告のせいだわ。くそー。勝手に死ね。
あたた。足首ひねっちゃったかな。くそ、歩けん。いででで。うわー肘もアザになってる。やべえ。正月明けに撮影予定はいってるんよね。いや、それよりも遅刻なのだ、収録なのだ。開始時刻は午後一時なのだ!
誰か手を貸し……うわは、さすがに脂ギッシュなおじさまは、ちょっとかんべん。ええと、親切そうで脂ぎってない人は。
よっしゃ、あれだ。通りすがりの少年、白のダウンジャケット。中三、てこたないか。高一くらいかな。ちょっとかわいい系。アタシは営業用のベスト笑顔で声をかける。
「あのーもしもし、そこのお方。一生のお願いなんですけど、ちょい手を貸してもらえませんでしょうか?」
*
アタシの人を見る目も、まんざらじゃないみたい。
白ダウンの少年ったら、改札まででいいって言ったのに、いっしょに電車に乗ってくれて、しかも飯田橋まで送ってくれるっていうんだもん。
うーん、こういう子がまだ生息してるってことは、日本もまだまだ安泰ですなあ。
秋葉原まではすぐだった。総武線に乗り換えるのも、少年の親切なアシストつき。おお、こいつぁ便利だね。アタシら二人、仲良く席に座る。
あ。またメールだ。件名は──あぎゃぎゃ。まーた自殺予告の転送かよ。
「え?」
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