私市陶子(キサイチ トウコ) [09:38]
……私が最初にメールをいただきましたのは、一学期まで同窓でした服部さんからで、ちょうど寝室のお掃除を終えてひと休みしている時でした。
服部さんは堀田さんからメールをいただき、堀田さんは中学時代のお友達の左右田さんという男子から連絡いただいたのだそうです。
私ったら、ほんとうに驚いてしまいまして、しばらくの間どうしてよいのかわからず呆然としていましたけど、やがて、ともかく先生に相談せねばと思いたちました。
先生というのは、私の旦那さまのことです。どうしても初めのころの癖がぬけなくって、今でも『先生』って呼んでしまうんです。だって私、二学期の初日に学校をやめて、ほんの三ヶ月前に結婚式をあげたばかりで、それまでの私と先生は、ずうっと、ただの女子校の生徒と新任英語教師という間柄だったのですもの。こればっかりはしかたのないことだと思うんです、私。
──自殺予告ぅ!?
やはり先生も、私と同じようにたいそう驚いてくださいました。こういうのを似た者夫婦というのかしら。ふと嬉しくなります。
──ええ。ですから私、どうしようかと思いまして。
──どうしようって……
──ですから、この徳永さんを探しにゆこうかと。左右田さんとおっしゃる人が、〈捜索隊〉を組織しましょうっておっしゃってますので、そこへまず。
──ちょ、ちょっと待った!
先生の寝不足気味の声が、ぴょんと一オクターブ上がりました。私、音感はたいそう良いものですから……高等部ではこの春まで合唱部のサブリーダーを務めていました……ほんとうにぴったり一オクターブだったのは確かなことです。
──あのね、陶子くん。じゃなかった、陶子。いいかい、よく聞いてくれ。君、いま妊娠、えーと、八ヶ月だよね。
──はい、もちろんです(と私は綺麗にふくらんだお腹を見下ろしました)。先生と私の、大事な大事な愛の結晶……
──もしもし? とにかくだね、妊娠の八ヶ月目って、そりゃたしかにもうすっかり安定期かもしれないけど、お腹はこんなんなってるし、腰の負担とか、中でぐーって動いたりとか、とにかく大変だよね。だいたい初産なんだよ、いや、それは当然なんだが。ほんとは実家にいたほうがいいくらいで、でもうちは今おやじが入院中でああいう状況だし、きみのほうはちょと敷居が高……
──いいえ、家には戻りません、私。約束しましたもの、私たちだけでりっぱに産んでみせますって。お母さまもお父さまも間違っていらっしゃいます。
──わかったわかった。その話はまた今度ね。でだね、そういう状況でぼくは仕事でどうしても帰れなくて。
──はい先生、ちゃんと憶えてます。先生がお勤めの会社の、とても大きなサーバが海外から攻撃対象にされて、とても大変なことになってしまって、新年が無事にあけるまで目を離せない、初めての二人だけのお正月をいっしょに過ごせなくて、ほんとうにもうしわけない、けれど埋め合わせに、陶子のために素敵なプレゼントを見つけてこよう。ですよね、先生?
──だから『先生』ってのはもうそろそろ……まあいいや、それは。ともかくシフトは元日いっぱいだから。食料も買い溜めしといたし、緊急の場合は管理人さんがあれしてくれることになってるし、君はそこから……アパートから出なくていいんだ。というか、出ちゃいけないんだよ。いや、適度な運動はいいんだけど。わかる?
──さようですか。
──そうなんだよ。そうでなくても君は世間知ら……なんだその、ちょっと人が好すぎるところがあるから。
──はい先生。
実をもうしますと、先生は間違っていらっしゃるのです。私は、先生が思っていらっしゃるほど、世間知らずでもなければお人好しでもありません。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。