ぼくは勉強ができない(山田詠美)

山田詠美の『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)は、山田詠美ファンに限らず青春期の愛読書として広く読まれています。今回のfinalventさんの書評は、そんな本作を大人が読んだときに、どんな意味を持つのかを読み解きます。大人になることで、何を失い、どんな意義があったのか。人の原点を見つめなおす書評です。

賞賛するか、嫌悪を抱くか

 人が、自分は大人になったと感じるのはいつのことか。あれがその時だったという瞬間を絵のように持つ人もいるだろうし、ある変容の時期を音楽のように振り返る人もいるだろう。いずれの場合も、その変化を自分のための一つの物語として所有していることが大人であることの意味になる。

 大人であるという意識は、ゆえに一つの仮構であり、それはおそらく何かを失ってしまったことへの補償、あるいは癒すことのできない心の傷がもたらす防衛でもあるだろう。心の戦いの物語だと言い換えてもよい。他者に開示されるならその物語は、味方だと思える人には強い愛着となり、敵対的な人には嫌悪となる。しかしどのように物語が受容されても文学のある水準を越えたとき、愛着と嫌悪を越えた、それでいてある後ろめたい居心地の悪さに人は向き合うことになる。山田詠美の青春小説『ぼくは勉強ができない』は、すでに大人となったはずの人をその奇妙な位置に再び立たせる。

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)
ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 この物語は、高校生の日常を描いた爽快な青春小説として読むこともできる。主人公のサッカー好き高校二年生・時田秀美は、自分は勉強ができないと公言してはばからない。彼は、勉強より大切なことがあると確信している。男ならなにより、女にもてることが大切だし、もてるかもてないかは顔を見ればわかるものだ、と言う。実際彼は、バーでのアルバイトで知り合った八歳ほど年上の桃子と肉体関係を持ち続けている。また、私生児として彼を産んだ独身の母親も、七十歳近くなっても女性を追い回す祖父も、彼の味方である。対して、勉強が大切だとする、社会の型にはまった大人や同級生を彼は嫌悪する。『ぼくは勉強ができない』は、そんな高校生が繰り広げる八つの連作短編と、彼の小学生時代の人間関係を描いた一つの番外編で構成されている。

 連作表題ともなった第一作目「ぼくは勉強ができない」は、高校二年生のクラス委員を選出する選挙の場面から始まる。ガリ勉タイプの脇山が一位で委員長となる。主人公・時田は二位で書記。二人は噛み合わない。脇山は時田を勉強ができないとなじる。時田は脇山に「おまえ、女にもてないだろ」と言い返す。それで終わらず、時田は幼なじみの女友だち・真理をけしかけ、脇山を誘惑させ、恋情を引き出してから、予定通り捨てさせる。真理は言う、「私、勉強しか取り得のない男の人って、やっぱ苦手みたい。つまんないんだもん」。脇山はショックを受けて成績を落とす。時田はそうした脇山のような人間について、「人間が、そんなにも弱くて良いものだろうか。つまんないんだもん、もてないんだもんで否定されてしまうようなものなど、初めから無いも当然ではないのか」と思う。

 読者はここで二手に分かれる。主人公・時田のような人間の味方か、それとも敵か。その差によって、この物語は称賛か嫌悪に分かれる。嫌悪する人も少なくないはずだが、それを緩和するための仕掛けも用意されている。

 クラス委員選出の選挙のさなかである。時田は小学校五年生のホームルームでクラス委員長選出したときの、ある事件を思い出す。転校してきたばかりでクラスの事情を理解していなかった彼は、クラスメートの伊藤友子に一票を入れた。開票で彼女の名前が呼ばれると、担任は突然「誰だ!伊藤友子の名前を書いた奴は?!」と大声を上げた。事態を理解できず困惑している時田にクラスメートの一人が、彼女は「馬鹿だから」と告げた。「馬鹿」を委員長に選んではいけないという暗黙の規則がクラスにあったのだった。「勉強ができない人間」を排除する制度が仕組まれている学校というものに時田は嫌悪を覚え、自身を、馬鹿とされる伊藤友子の側に置いた。

 先のガリ勉・脇山をなじる時田の言葉はこう続いていた。

伊藤友子は、もっと昔から、存在を否定されていたのだ。そして、傲慢にも否定するのを当然と思う人間が当たり前のように生きているのだ。大学を出ないとろくな人間になれない。脇山は、何の疑問を持たない様子で、そう口に出した。何故なら、そう教える人間たちがいるからだ。いい顔になりなさいと諭す人間が少なすぎるのだ。

 一見、爽やかに見える主人公・時田は、そうした社会的ルサンチマン(怨恨)を存在理由としている。肉体関係の心地よさもルサンチマンを支える道具である。彼を支持する母や祖父もまたルサンチマンを支えているかに見える。なお、ルサンチマンとは、社会的な強者に対して弱者が抱く、怨恨・妬み・憎悪、非難の感情である。哲学者ニーチェはこの感情が、強者や社会体制は悪、対して弱者である「私」に善、という欺瞞的な正義感を与えるとし、人間精神を蝕む宿痾とした。

人はどのようにして大人になるのか

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