前編】「やらせ」の境目はメディアで変わる

テレビ東京ディレクター兼プロデューサーの高橋弘樹さんが、ちくま新書より『TVディレクターの演出術――物事の魅力を引き出す方法』を刊行されました。それを記念して、「世界ナゼそこに?日本人」の取材で海外を飛び回る高橋さんと、海外ルポで高い評価を受けるノンフィクション作家・石井光太さんとの対談を行いました。著書『僕らが世界に出る理由』で、メディア論にもふれている石井さんと、取材、演出、メディア論についてなど、幅広く語っていただきました。高橋さんの連載「人と同じじゃつまらない――TVディレクターの演出術」とあわせてご覧ください。

文章と映像では、「やらせ」の基準が変わる

—最近テレビでは、「やらせ」が問題になってます。この本のタイトルは「TVディレクターの演出術」というきわどいものなのですが、メディアにかかわるものとして、石井さんは演出・脚色について、どうお考えですか。

石井 文章と映像とでは、方法論がまず違いますよね。高橋さんのご著書『TVディレクターの演出術—物事の魅力を引き出す方法』のなかで、番組の中でペルーのスラムに暮らす女性に手紙を書いてもらう場面がでてきます。スラムの女性にどう感謝を伝えればいいか相談され、ディレクターに手紙を書いてみては、と提案した話。テレビだと、手紙を読んで気持ちをつたえるシーンが必要になる。それを撮らなければならない。だから、手紙を書いてもらって読んでもらわなければなりません。テレビ関係者はこれを正当な演出といい、性格の悪い視聴者は「やらせ」という。

高橋 たしかに、ときどき度の過ぎた「やらせ」もありますけど、そこまで言うほどのものでは……というときもありますね。

石井 一方、文章ではそういうことをやる必要はない。なぜならば、過去にやっていてその手紙が残っていれば、引用してフラッシュバックのようにはさみこんだりすればいいわけですから、わざわざやってもらう必要はない。
 映像はどうしても写さなければならないし、その映像がなければ番組にならないので「演出」は必要です。ただ、それをどこまで「やらせ」というのかは後で話すことになると思いますが、まったく別の問題だと思います。

高橋 いきなりヘビーですね、会社でも研修とかでそのルールみたいなのを習うんですが、それを受けいれるかどうかはこちらの問題です。
 取材対象者AとBがいて、AがBに凄い感謝をしていたとする。再現VTRをいれるという手もありますが、僕なら再現VTRでなく、なんとなくそのAのBに対する具体的な感謝が取材中に現象として垣間見れるように、ロケをしながら色々考えてこっそりイベントとかをしかけることもある。僕はこういった演出には肯定的です。

—高橋さんは、「演出」と「やらせ」の違いをどうお考えですか?

高橋 僕は、「演出」か「やらせ」かの大きな指針の1つは、最終的な目的が「真実」を描くことになっているか否かだと思います。
 例えば、同じく感謝の手紙を書いてもらう行為でも、「真実」としてAがBに本当に感謝しているならば、「演出」。しかし、AとBが非常に仲が悪い。しかし番組でそういうのは後味が良くないから、申し訳ないけど、仲の良い感じの手紙書いてください、というのは「やらせ」。
 「仕掛け」が、「真実」を描くという目的の為の手段なのか、「虚偽」を描くという目的の為の手段なのかが、「演出」と「やらせ」を区分する線を引くべきだとするときの、大きな目安になると思います。
 もちろん、前者の「演出」の場合でも、あからさまに書いてください、というより、何となく場の空気や先方から尋ねられたタイミングを利用して手紙を書くように持って行くなど、いかに自然の流れの中でディレクターが、「真実」を描くために仕掛けていくかも重要だと思います。

『深夜特急』の内容が一言一句正確だったら……

石井 ノンフィクションのなかにもいろんなジャンルがあります。事件のノンフィクション、紀行文、評伝、犯罪者の手記それぞれルールがちがいます。
 事件なら一言一句すべて正確に書かなければならない。なぜならば表面的な事実、つまり誰が何をしたということを正確に記すことが社会的意味を持っているからです。
 しかし、紀行文なんかはちがう。これは、一言一句をいかに正確に記録するかということではなく、旅の魅力をどう伝えるかが重要です。たとえば沢木耕太郎さんの『深夜特急』ならば、十年以上前に旅したことを書いた本なのに、会話や描写が事細かに書かれています。もちろん、一言一句正確なわけではない。しかし、これは紀行文なので、逆にそう書かなければ旅の魅力がつたわらないので、これでいいんです。

高橋 描写の正確さを追求するあまり旅の魅力が伝わらない紀行文じゃ、本末転倒ですもんね。

石井 あるいは評伝なんかもルールが違う。事件ルポのように正確性は必要ですが、50年以上前に死んだ人の評伝なのに「」付きの会話が書かれていたりすることがある。でも、評伝という本のルールではこれは許されるんです。もし「」や描写がなければ学術本になってしまう。そうしないためにも、記録に残っている限りで事実として裏付けできる範囲であれば、「」の会話や描写は許されるんです。
 つまり、ノンフィクションと一言でいっても、「事実に基づいている」という原則の中で多種多様なジャンルがあり、それぞれルールがちがうんです。あるいは、作品によっても違います。作品による違いについては、ものすごく細かなことになるので当事者である作家、編集者、校閲者で決めていくしかありません。これを一つにくくってしまうから、いろいろな誤解が生じる。作家自身が誤解している部分だってたくさんある。

高橋 そう言われてみると、ルールという観点はたしかに大事ですね。

石井 テレビも同様だと思います。テレビ番組といっても、ニュース報道、ドキュメンタリー、バラエティーなど様々なジャンルがある。そのジャンルによってルールは違う。もちろん、話題になっているような「やらせ」はまずい。ただ、ジャンルによってぜんぜん方法論が違うのだということは、どこかしらできちんと示した方がいい。高橋さんのご著書はそういう意味でも面白かったです。

高橋 本にも書きましたが、物事を正しく伝えたいからこそ「演出」を入れることはとても多いです。イランに取材にいったとき、イランで水戸黄門が人気なため、それについて聞き込みをしていたら「水戸黄門はアフマディーネジャードに似ている」と政治的なジョークを言ったイラン人がいました。するとすぐさま横にいた別のイラン人が、「そういうジョークはよせ」と言ったのです。
 直訳だとこれだけなのですが、僕はオンエアに際し、そこに「おまえ警察につかまるぞ」という言葉を加えました。イラン人にはその補足がなくても「よせ」の意味が伝わりますが、日本人には補足をしないと、なぜ「よせ」と言ったのかその理由が解らないと思ったからです。海外の場合、日本と文化が異なる。報道だろうと、エンターテイメントだろうとやはり、発言の裏に隠されている真の意味も、時と場合によっては言語化した方が良いというのが僕の立場です。しかし、ご時世的には厳しくなっている気も。

石井 海外は難しいですね。文章の世界でも、海外ルポのセリフや言葉はとても悩みます。そのまま直訳したりしても絶対につたわらない。特にイランとか、あるいはストリートチルドレンとか、日本人にあまりなじみがないような地域や人の会話をそのまま日本人に理解してもらうのは非常に難しいです。そこらへんは拙著『僕らが世界に出る理由』でもかなり細かく触れています。ただ、もう細かくはその本、そのシーン、その瞬間、その関係でルールは変わるので定義づけは難しいんです。テレビも同じですか。

高橋 テレビだと、どこもそのルールを定義づけていないですからね。

石井 それでも、昔はそれはやりすぎだろっていうのはありましたけどね(笑)。特にバラエティーなんかでは。

高橋 皮肉なのは、そのころのテレビはおもしろかったんですよね。
 バラエティも報道の厳しさで観られることはあります。こちらとしてはそれでもいいと思うのですが……。

「作家」か「記者」かでも方法論は変わる

高橋 石井さんの『レンタルチャイルド』をノンフィクションかフィクションか知らずに読んだとき、最初これは小説だなと思いました。石井さんのなかで、どのへんを書き足すなどのルールはありますか。

石井 海外の場合は、ストリートチルドレンは教育を受けていないのでボキャブラリーが少ないですよね。わずか100語ぐらいでコミュニケーションが成り立ってしまっているわけです。日本語でわかりやすく言えば、彼らの言葉が「これヤバイね」しかなくても、それは「これおいしいね」「これまずいね」「この女は美人だね」「この女は性格悪いね」と多様なわけです。少ない言葉でも空気によって成り立っている。しかし、これはあくまでその場の空気や流れやジェスチャーの中で成り立つコミュニケーションなんです。文化の大きい。だから、それをそのまま日本人に読ませてもわかるわけがないから、文脈を追加しないといけない。

高橋 テレビの現場でやっているのと同じことです。

石井 あと、海外取材している人ならわかると思いますが、スラムなんかだと、いろんな言葉を話す大人数を同時に相手にすることがあります。通訳を一人連れて行ってインタビューをしていても、いつの間にか人があつまってきて30人ぐらいになって、いろんな人間が勝手に通訳してくれます。しかし、それをそのまま書いたら、本にならないので、一人だけしかいないような形で描かなければなりません。

高橋 活字のノンフィクション特有の難しさですね。

石井 ノンフィクションのルールとして起きていないことは書いてはいけません。ただし、見えていなくてもわかっていること、風景や匂いなんかは書いてもよいと考えています。特に海外の場合、イメージがつかないと思いますので、それらを描く必要があるんです。ある程度つよい描写、たとえば、暑い日だったら、それを示すために「太陽がギラギラと照りつけ、池の水を蒸発させ、虫の死骸が干上がっていた」なんて書くのはOKだと思っています。気温が50度近くあれば、否応なくそうなりますからね。そして、そうした描写をどこまで描いて、作品世界をつくれるか、ということが、「記者」と「作家」の違いだと思います。「記者」はそれができないし、やってはいけない。しかし「作家」はそれをやる人なのです。芸術家ですからね。


テレビ東京のなかでも異端な番組にかかわり続けたディレクターが「物作り」の秘訣を語る!
すべての仕事のヒントになる『TVディレクターの演出術』、新書もぜひご覧ください。

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蛍の森
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ケイクス

この連載について

ノンフィクションのちから—石井光太×高橋弘樹対談

石井光太 /高橋弘樹

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Tellur https://t.co/pCMtg0Hygj テレビのヤラセ問題。記事単体で読んだが、テレビ側の言い訳に終始した印象。書物は再読可能で、いつでも入手でき、さらに読者の想像力に依存するからテレビよりヤラセの基準が緩くて当然。映像メディアは本質的に「演出」を作り出す体質なのかも。 5年弱前 replyretweetfavorite

Hotakasugi いい対談だ。- 5年弱前 replyretweetfavorite

sugichigu 高橋さんてば、ケイクスでも対談しちゃってるよ! びっくりだよ。 https://t.co/h4VWmKHi5n 5年弱前 replyretweetfavorite