まじめとは、あるがままの姿で生きること
藤野 僕、堀江貴文は、まじめな人間だと思っているんです。
堀江 えっ、なんですか改めて(笑)。僕、まじめだと思いますけど。
藤野 でも世間の多くの人は、東証一部上場で、時価総額の大きな、お茶の間でテレビコマーシャルが流れている会社の社長、みたいな人のことを、まじめだと思っているんですよね。
堀江 うーん、なるほど、そういうことか。
藤野 僕はいま、「まじめ」という言葉が日本で取り違えられていると思っているんです。日本人の思う「まじめ」って、規則に従うとか、遅刻をしないとか、服装がきっちりしてるとか、そういう人のことでしょう。でも、本来の「まじめ」ってそういう意味ではないんですよ。
堀江 違うんですか。
藤野 「まじめ」という言葉は、仏教用語の「真面目(しんめんもく)」という言葉からきています。これはどういう意味かというと、人や物が持っている本来のありさまや姿のことなんです。中国・宋の時代の詩人が「柳は緑 花は紅 真面目」と詠じています。これは、春の景色を表現していて、柳は新緑で、花々は紅色に輝いている、そのありのままの姿がまさに美しい、という意味です。まじめって、本来はそういう意味なんですよ。
堀江 知りませんでした。
藤野 堀江さんは、これはもともとどうあるべきなのか、こうあったらすてきだよね、ということを、前提にとらわれず発想して、実行していく。それって、すごく「まじめ」な行為なんです。前提にとらわれると、今の自分はお金がない、学歴がない、人脈がない、だったら何もできないと、どんどん発想が縮小していってしまいます。
堀江 そうですね。それは、やっぱり先のことを考え過ぎということもありますよね。先のこと考えても仕方ないんですよ。だから、今を見据えて生きようという話を『ゼロ』でもしてるんですけどね。
藤野 『ゼロ』のなかで、小学1年生のときに突然、自分もいつかは死ぬという恐怖に襲われたと書かれていますよね。それがやはり大きな体験となって、そういう考えにつながったのでしょうか?