日本一監督となった星野仙一との因縁
2013年のプロ野球の日本シリーズでは、読売ジャイアンツと、シリーズ初出場となった東北楽天ゴールデンイーグルスが対戦した。3勝3敗の五分で迎えた7戦目(11月3日)を楽天が制し、球団創設9年目にして初の日本一に輝いたことは周知の通りである。
このシリーズのさなかの10月28日、戦前から戦後にかけて巨人で活躍した名打者であり、監督としても、1965年から1973年まで9年連続で巨人の日本シリーズ制覇(V9)を達成した川上哲治が死去した(93歳)。訃報が伝えられた10月30日の日本シリーズ第4戦では、巨人だけではなく楽天の選手たちも喪章をつけて試合にのぞんだ。
所属した巨人のみならず、楽天の選手も喪に服したのは、球界から初めて文化功労者(1992年)となるなど、川上の球界全体での業績に敬意を称したものであったのだろう。それと同時に、楽天の現監督・星野仙一の川上への個人的な思いもあったと思われる。
星野と川上の因縁は、星野が明治大学卒業を控えた1968年のドラフト会議までさかのぼる。このとき、星野は巨人から1位指名されるものと思いこんでいたが、巨人は島野修を指名、結局中日ドラゴンズに入団した。川上によれば、会議の4日ぐらい前までは星野をとるつもりであったが、肩を壊していて使いものにならないとの情報を得て、とりやめたのだという(『BOSS』2003年10月号)。
ともあれ星野はそれ以来、巨人に対しひときわ闘志を燃やした。1974年には中日のエースとして、川上率いる巨人のV10を阻むのに大きく貢献している。
そんな星野だが、現役引退後は川上を慕い、師弟ともいえる関係を築いた。きっかけは、星野が引退してNHKの解説者となったことだった。先に解説者となっていた川上やほかの巨人OBとゴルフに出かけるなど、つきあううちに互いに信頼を寄せるようになったらしい。
1986年のシーズンオフに中日ドラゴンズの監督に就任した星野は、背番号を「77」とした。その後も阪神タイガース、北京オリンピックの日本代表チーム、そして楽天と、彼が監督を務めるたびにつけてきた77番は、川上の監督時代の背番号にあやかったものだ。
そもそも川上が背番号を「77」としたのは、巨人の監督になって4年目の1964年のシーズンを終えてからだった。それまでは現役時代からの「16」をつけていたものの、「川上は監督になっても16番をつけて、打者としての功績をひけらかせている」との批判があがったため、思い切って背番号を変えたのである。
「77」を選んだ理由について、会見では「ダブルラッキーセブンでいいじゃないか」と話したものの、それ以外にも、このころ試合のあいまに楽しみにしていた、探偵もののテレビ映画『サンセット77』の人気にあやかったのだとものちに明かしている。
批判がつきまとった監督時代
背番号を変えた1964年のシーズンオフは、川上にとって「地獄だった」という。この年の巨人は、王貞治が55本のシーズン本塁打の日本記録(当時)を達成したとはいえ、チームの順位は3位に終わった。そればかりか、遊撃手として華麗な守備で評価の高かった広岡達朗をめぐり騒動が持ちあがる。これは、チームの戦術を批判した広岡に対し、チームワークを乱すと考えた川上が他球団への放出を画策、それにマスコミが非難の集中砲火を浴びせかけたというものだ(結局、広岡は巨人にとどまった)。
この騒動の心労から、川上夫人が直腸潰瘍で倒れてしまう。川上は「もう野球はやめる」とまで口にしたものの、病床の妻から「あなたから野球をとったら何が残るの」と言われ、思いとどまった。新たな背番号でのぞんだ1965年のシーズン、巨人は2年ぶりに日本一となり、V9の第一歩を踏み出す。
1961年シーズンから監督として巨人を率いるようになってからというもの、川上に対しては常に批判がつきまとった。同年春の宮崎キャンプでは、取材の時間や場所の規制を行ない、練習中はグラウンドから記者たちを締め出したため、マスコミは「哲のカーテン」と揶揄した。
V9時代にあっても、1点でも多く稼ぐためバントや犠牲フライを選手に指示することも多かったため、「田舎者野球」「コセコセ野球」「面白みのない点取り野球」とも評された。川上の不人気ぶりは、V9を支えたスター選手である王貞治・長嶋茂雄の「ON」の2人の人気とは裏腹であった。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。