いよいよ「数学ガールの秘密ノート」シリーズ、書籍化第二弾が登場!
『数学ガールの秘密ノート/整数で遊ぼう』の刊行は2013年12月です。どうぞご期待ください!
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高校の図書室にて
(第53回の続き)
テトラ「そうなんですね……」
テトラちゃんは再びじっと思考モードに入り、 親指の爪をそっと噛む。 そして、しばらくしてからゆっくり顔をあげる。
テトラ「……先輩?」
僕「何?」
テトラ「話、戻ってしまうんですが……ベクトルという数学的対象のことです」
僕「うん」
テトラ「先輩は、ベクトルというものに対して、《平行移動したもの同士をすべて等しいベクトルと見なす》とおっしゃいましたよね」
僕「うん、そういう話をしてたんだけど?」
テトラ「平行移動で《等しさ》を定義して、ベクトルというものが生まれたわけですよね」
僕「そういえるね」
テトラ「それは、たまたま、ですよね」
僕「?」
テトラ「《等しさ》を定義するのに、平行移動じゃなくても別によかったわけですよね」
僕「平行移動じゃなくても……まあ、いいといえばいいけど、それはもうベクトルじゃないなあ」
テトラ「平面の上だと、すすすすっという平行移動だけじゃなくて、ぐるぐるぐるぐるっという回転移動もありますよね」
僕「回転移動だって?」
テトラ「はい。《平行移動と回転移動した矢印同士をすべて等しい》と見なしたら……そんなふうにして《等しさ》を定義したら、いったいどんな数学的対象が生まれるんですか?」
平行移動と回転移動した矢印同士をすべて等しいと見なしたら、 どんな数学的対象が生まれるのか。
僕「なるほど。それはね……わかった!」
テトラ「どんなものが生まれるんですか?」
僕「うん、僕は《たぶんこれかな》というアイディアが浮かんだよ。でも、テトラちゃんも考えてごらんよ。これはすばらしい疑問だと思うな」
テトラ「そ、そうなんですか……ええと」
僕とテトラちゃんはノートを前にして並んで座っている。 彼女はしばらくノートに図形のようなものを描いていたけれど、 やがて、僕の方を向く。
テトラ「す、すみません……やっぱりわからないです」
僕「ねえ、テトラちゃん。ちょっと想像してごらんよ。平面の上に矢印がひとつある。そしてそれを平行移動させて得られるたくさんの矢印たち。 全部同じ向きと同じ大きさを持っているよね。これが等しいベクトルたち」
僕が「想像してごらんよ」というと、 素直なテトラちゃんはこちらに顔を向けたまま、そっと目を閉じた。 彼女は……彼女はきっとたくさんの矢印を想像しているんだろう。 でも、僕は目を閉じた彼女に、なぜか胸がどきどきしてしまった。
テトラ「……すね」
テトラちゃんは目を閉じたまま答える。
僕「え?」
テトラ「はい、想像できますね。全部同じ向きと同じ大きさのベクトル。等しいベクトルたち」
僕「う、うん。それから次に、平行移動や回転移動をして得られるたくさんの矢印たちを想像する。いくらぐるぐる回してもいい。こんどは何が同じになると思う?」
テトラ「なるほど、わかりましたっ! 今度は向きがばらばらなものも等しい矢印だと思うわけですね。ということはもう向きは同じじゃありません。でも、大きさは同じですっ」
テトラちゃんは、まだ目を閉じたままだ。
僕「そうだね」
僕はそういいながら、目を閉じたテトラちゃんをじっと見る。 そういえば、目を閉じた彼女をこんなに間近で見るなんて、これまでなかったかもしれない。
ミルカ「何を見つめ合ってる?」
僕「うわっ!」
ミルカさんは僕のクラスメート。 長い黒髪にメタルフレームの眼鏡。 いつも数学トークを導いてくれるリーダー的存在だ。 それにしても……ああびっくりした。
テトラちゃんが目を開けた。
テトラ「あ、ミルカさん! ……別に見つめ合っていたわけじゃないですよぅ。ベクトルのことを想像していただけです」
ミルカ「ふうん……ヴェクタがどうしたって?」
ミルカさんはベクトルをいつもヴェクタと呼ぶ。英語読みらしい。
テトラ「あのですね。先輩が《平行移動しても等しい》ということからベクトルが生まれたというお話をしてくださったので、あたしが《平行移動と回転移動しても等しい》としたら何が生まれるかと質問していたんです」
ミルカ「そして見つめ合う二人」
僕「違うって。《平行移動と回転移動しても等しい》としたらベクトルの大きさが生まれるとわかったんだよ。実数という数学的対象が生まれたといってもいいのかな」
ミルカ「ふうん……ずいぶん荒い議論だけれど、とりあえず訂正するとしたら《実数》が生まれたわけではなく、《 $0$ 以上の実数》だろうな」
僕「あ、そうか」
テトラ「?」
僕「マイナスは生まれてないからね」
ミルカ「しかし、議論が乱暴すぎるな。初めからきちんとやろう」
僕「初めから?」
ミルカ「ヴェクタを作り出すところから」
ベクトル
テトラ「あたしは初め、ベクトルは矢印のことだと思っていました。でも、それは一面的な見方ですよね」
僕「ベクトルは始点と終点を決めれば決まるからね」
テトラ「はい。ふにゃふにゃベクトルを考えたりしてもかまいませんし」
ミルカ「ふにゃふにゃベクトル?」
僕「こういうのだよ」
ミルカ「なるほど」
僕「始点と終点の組を考えて一つのベクトルが決まり、その組を平行移動したものをぜんぶ同一視する。それがベクトルだよね」
ミルカ「それは正しい」
僕「平行移動したものを同一視するってことは、向きと大きさがベクトルの本質だからだよね」
ミルカ「まあ、そういってもいい。平面や空間のヴェクタを考えている間は」
テトラ「平面や空間以外にもベクトルってあるんですか?」
ミルカ「ある。しかし、いまはその話よりも、《同一視》の方を考えよう。同一視とはいったい何か」
僕「そりゃ……《何かと何かを同じものと見なすこと》だよ」
ミルカ「ふむ。ということは、同一視を議論する前に《何か》の範囲を決めておいた方がよさそうだ」
テトラ「せ、先輩方……お話が抽象的すぎてわかりません」
ミルカ「具体的な話をしよう。これから平面上のヴェクタについて考えたい。出発点は座標平面上の点から。平面上の一つの点は $(x,y)$ という二つの実数の組で表すことができる」
僕「うん」
テトラ「……はい」
ミルカ「そして、平面全体は《二つの実数の組 $(x,y)$ 全体の集合》からできている」
僕「そうだね」
テトラ「そ、それは、 $(0, 0), (1, 2), (3.5, -4), \ldots$ のような点がたくさんたくさん集まって平面ができている……というイメージでいいんですよね」
ミルカ「それでいい。大事なことは、《平面》という幾何学的な言葉を、《二つの実数の組 $(x,y)$ 全体の集合》という非・幾何学的な言葉を使って言い換えたということ」
僕「ははあ、なるほど。いわれてみればそうだなあ」
ミルカ「つまりいまは、実数や組や集合……などは既知の概念として議論を進めていることになる。実数を使って図形を表現する」
テトラ「すみません。頭の回転が鈍くて……いまは何を議論しようとしているんでしょうか」
ミルカ「図形の助けを借りずにヴェクタを定義しようとしているところなんだよ、テトラ」
テトラ「ベクトルを……定義?」
ミルカ「ヴェクタを矢印で考えるのは直観的でわかりやすいし、まちがいではない。しかし、彼が……同一視というおもしろい話を始めたから、きちんと同一視を考えつつヴェクタを定義してみよう」
テトラ「はい」
ミルカ「平面というものを《二つの実数の組 $(x,y)$ 全体の集合》として表せたとする。では、この平面上のヴェクタというものはどう表せるだろうか」
《平面》というものを《二つの実数の組 $(x,y)$ 全体の集合》と表すとしよう。 このとき、《平面上のベクトル》というものはどう表せるか。
僕「なるほど……そうだなあ……」
テトラ「あああっ! そういうことですか! 平面を《ひらべったくてずっと広がっている……》みたいに表すんじゃなく、《二つの実数の組 $(x,y)$ 全体の集合》のように表したとしたら、そのような表し方をするならば、 ベクトルはどうなるか、ってことですね!」
僕「そうそう」
ミルカ「テトラは理解が早いな」
僕「ベクトルはこんなふうに表せるんじゃないかな。成分を考えればいいんだよ、きっと」
平面上のあるベクトルは、 $(a,b)$ で表せる。 ただし、 $a,b$ は任意の実数とする。
テトラ「え……で、でも、 $(a,b)$ って平面上の一つの点……じゃないんですか?」
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この連載について
数学ガールの秘密ノート
数学青春物語「数学ガール」の中高生たちが数学トークをする楽しい読み物です。中学生や高校生の数学を題材に、 数学のおもしろさと学ぶよろこびを味わいましょう。本シリーズはすでに14巻以上も書籍化されている大人気連載です。 (毎週金曜日更新)