食は広州に在り(邱永漢)後編

邱永漢(きゅうえいかん)のエッセイ、『食は広州にあり』(中公文庫)評後編です。一見、気軽に読める食のエッセイである本作ですが、そこには邱永漢の複雑な出自と半生が映しだされていました。後編は香港にいた邱永漢が、なぜ日本で作家として活動するようになったのか。そこにはどんな覚悟があったのかを、本書を通じて読み解きます。

なぜ邱永漢は日本に戻ったのか

食は広州に在り (中公文庫)
食は広州に在り (中公文庫)

 邱永漢は戦後、日本の東大にいることに違和感を覚えつつも、「東大社会科学研究会」を興した。これが後に全学連の母体となる。邱永漢は日本の学生運動の種を蒔いた人でもあった。しかし彼は運動家としての道も進まなかった(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)。

 ずっと後になって私は東京へ戻って作家になり、東京新聞に頼まれて全学連のデモの取材に行ったことがあるが、あのきかん気の筋金入りのスクラムを目の当たりにして、「昔、全学連、今、資本家の走狗……か」と思わず自嘲的なセリフが口から出てきた。あの時すでに私は経済の発展が日本を世界的な富裕国にすることを予見しており、自分自身が「金儲けの神様」への道を突っ走ることになるだろうことを自覚していた。

 いずれ復興していく日本と自身の人生がかかわっていくことは予想されていたが、戦後はひとまず日本を離れ台湾に戻った。が、そこでは台湾を占拠した国民党政府から追われる身となり、香港に逃れた。政治亡命と言ってよい。その地で商才を発揮し、日本に闇物資を送る商売で大金を稼ぎ、令嬢を嫁に迎えた。台湾と香港は、二十代後半の活躍の場となった。

 彼がまた日本に戻るようになったのは、経済復興の日本にお金の臭いを嗅いだからではない。香港を拠点とした闇商売が行き詰まりつつあったこともあるが、それよりも異郷で生まれた一人娘の病気を案じてのことだった。1952年(昭和27年)、香港島セント・マリー・ホスピタルで生まれた長女・邱世嬪の首には痣があり、そこが傷となりふさがらない。1歳3か月。傷が頸動脈に達すると命にかかわるので、早急な治療を要するが、それが可能なのは日本だった。かくして邱永漢は、幼い娘のために香港を捨て再び日本に向かうことになった。

 軽妙な食のエッセイに見える『食は広州に在り』は、まさにその人生の再出発の地点から始まるのである。書名ともなった冒頭の章「食在廣州 食は広州に在り」の末に、妻を日本に連れてきた所以に含め、娘の痣について軽く触れている。

 いちいち釈明するのはめんどうくさいので、長いあいだ相手にもしなかったが、娘の首すじにある痣の治療に日本に来ることになったので、この機会に少しは日本の女性を見習いなさいと言って連れてきた。今年の春、桜が散り始めたころのことである。

 日本にまたやってきたはいいが、どう生計を立てるのか。小説家にでもなるか、と彼は思った。なれる気でいたのだった。

 そう思えたきっかけは偶然と言ってもいいだろう。台湾を追われ日本で活躍の場を探そうとしていた台湾人の友人が、日本の裁判所から国外退去という判決を受けたことを邱永漢は知った。当時、香港を拠点とし日本を行き来していた邱永漢だったが、この友人を弁護するために日本の裁判資料として『密入国者の手記』(現代新書)という小説を書いたことがある。この作品が台北高校時代の恩人・西川満のつてで「大衆文芸」1月号に掲載され、山岡荘八や村上元三から評価された。その勢いから「オール新人杯」という文芸誌の応募にも挑戦した。受賞はしないまでもそれなりに評価された。妻と娘を連れて日本に行っても、作家としてやっていけるのではないかと思ったのはそれが理由だった。1954年(昭和29年)、30歳になったばかりのことだった。

国を超える食の楽しみ

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