食は広州に在り(邱永漢)前編

50回を迎えたfinalventさんの書評連載「新しい「古典」を読む」、今回は2012年に亡くなった作家・実業家の邱永漢(きゅうえいかん)のエッセイ『食は広州にあり』(中公文庫)。半世紀以上たった今でも読み継がれるこの名著は、気軽に読める食エッセイでもありながら、邱永漢自身の人生が垣間見える作品です。邱永漢を尊敬してやまないfinalventさんは、本書をどう読むのか。前後編に分けてお届けします。

「人間は国が亡んだとて生きていける」

邱永漢 きゅうえいかん 『食は広州に在り』は、昭和29年(1954年)12月から食の専門誌『あまカラ』誌上に連載され、昭和32年(1957年)に龍星閣から出版された。ちなみに、私は昭和32年の生まれであり、また彼と同じく妻が異文化の食生活を背景に育った人ということもあって、この本は自分の人生の時間に重なっているような思いがする。後に中公文庫となり、食の名著として確立され、彼の死後も絶版することなく読み継がれている。

食は広州に在り (中公文庫)
食は広州に在り (中公文庫)

 そうした評価は、文庫本に付された丸谷才一による解説に詳しい。丸谷は、邱が本書を通して「人間の素朴な生活の楽しみ」を伝えているとし、さらに同書の真価も洞察している。

 だが、邱がわれわれに教えようとしたことは、やたら格式張った儒教道徳の誤りだけではない。彼はもう一つ、まさしく昭和二十年代の後半において日本人が学ばねばならぬことを説きつづけたのだが、暢気なわれわれは、たかが食べもののことを書いた随筆のなかにそんな大それた教訓が秘めてあるとは思わなかったらしい。彼の教訓とは、人間は国が亡んだとて生きていける、ということであった。

 確かに邱永漢は「人間は国が亡んだとて生きていける」ということを、身をもって示した人だった。その核心は本書『食は広州に在り』にも秘められている。もちろん、本書を食の名エッセイとして暢気に読んでもよい。後の邱永漢自身も、この作品をある種、若書きと見ていたふしもある。

 本書の独自の味わいは、青春というものが過ぎてから生じるかもしれない。あるいは、日本人は日本の歴史のなかに織り込まれているのだという自覚が生じる中年期が過ぎると、丸谷が見抜いていたように、この食のエッセイの、独自の味わいがわかる。一見軽妙に見える邱永漢という人間の深みを知るようになる。

 私は長く邱永漢に私淑してきた。私には商才も文才もないが、彼を通して生来の食いしん坊であることも自覚したし、禿頭の悲嘆も受け止めることができた。彼に惹かれて台湾の歴史の都、清朝時代初期の首府・台南も旅して回った。椰子の木の点在する南国らしい風景を赤崁楼から見下ろし、ここを故地とする彼のことを思った。邱は自身を直接、鄭成功になぞらえて語ることはなかったが、よく似ているのではないか。

中国人、台湾人、日本人である邱永漢

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finalvent

「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

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