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のんびりした気分に浸れる田舎町
先週、トロッシンゲンに行った。トロッシンゲンというのは、シュトゥットガルトから南西に100キロ余り離れた人口1万5000人ほどの小さな町だ。国立の音楽大学がある。
ドイツ南部のフランスとの国境のところには森林地帯が広がっていて、『黒い森』と呼ばれている。『黒い森』は風光明媚で空気清浄、保養地として有名だが、トロッシンゲンもその一角に位置する。
シュトゥットガルトからトロッシンゲンは、車だと途中までアウトバーンが通っているので1時間余りですいすいと行くが、電車を使うなら、スイス方面に向かってロットヴァイルという町で降り、2度乗換えなくてはならないので、結構面倒だ。
ただ、車窓からの眺めは、電車の方が断然素晴らしい。ロットヴァイルでローカル線に乗り換えてゴトゴト走っていくと、周りには丘陵あり、小川あり、集落も何も見えないのどかな田舎の風景が続く。
小川の向こうに広がる牧草地では、羊の群れがのんびり草を食んでいるし、ときに、その横に、メルヘンに登場するような風貌の羊飼いが杖を持って立っていたりする。目を凝らせば、野ウサギが元気に跳ねているのを見ることもできる。運が良ければ、シカも佇んでいる。
ドイツ6番目の都会シュトゥットガルトからちょっと離れただけで、これほどの農村風景に接することができるのは、ドイツ冥利に尽きるといったところか。トロッシンゲンには古くからの友人がいるので、私はときどき訪れるのだが、のんびりした気分に浸りたいときにはもってこいの場所でもある。
貧しい農村からハーモニカとアコーディオンのメッカへ
さて、今ではのどかなトロッシンゲンだが、しかし、この田舎町は、過去に面白い歴史を秘めている。実は、1世紀前、ハーモニカで一世を風靡した町であったのだ。
事の始まりは1827年、ときの文化先進都市ウィーンからこの町に、ハーモニカが持ち込まれる。ウィーンでハーモニカが商業的に販売され始めたのが1824年というから、そのあとまもなくのことだ。
3年後の1830年には、そのハーモニカを下地に、トロッシンゲンの時計職人クリスティアン・メスナーが自家製のハーモニカを完成し、1833年、本格的に製造を始めたという記録が残っている。特許などで製法が保護されていなかった時代のこと、能力のある人間にとって、コピーの製作はそれほど難しいことではなかったのかもしれない。もちろん、違法でもなかった。
メスナーはその後、自分のハーモニカがコピーされないよう、製法の秘密保持に最善の注意を払ったが、しかし、メスナーのハーモニカを分解して、研究をした人間は、この町にも少なからずいたようで、結局、コピーは防ぎようがなかった。
1857年、やはりトロッシンゲンのマティアス・ホーナーがハーモニカの会社を設立した。すでにその当時、この狭い町には数社のハーモニカ工房がひしめいていたというから、競争の凄まじさはまさに戦国時代並みだった。
ホーナー社の宣伝ポスター(筆者撮影)
結局、その中で勝ち残ったのがホーナー社だ。トロッシンゲンの他のハーモニカ会社をすべて買収し、1880年以降は同社の独壇場となる。新しくアコーディオンの製造も始まり、その市場はドイツだけでなく世界に広がった。
特にアメリカへの輸出が盛んだったが、そのきっかけが面白い。ホーナーは、最初に作った6本のハーモニカを売りにいったものの、音程が悪くて買い手がつかなかった。ガッカリして帰宅したら、妻が「アメリカの甥っ子に送ればいい。アメリカ人はドイツ人ほど神経質じゃないでしょう」と言った。
結果はその通りで、6本のハーモニカはアメリカで売れ、6ドルを手にできたのが、ホーナーのハーモニカのアメリカ進出の始まりだった。いずれにしても、こうして、貧しい農村だったトロッシンゲンは、ハーモニカとアコーディオンのメッカとなり、ホーナー社の名前は世界に広まっていったのである。
1927年、ハーモニカ製造100年の式典が開かれたとき、トロッシンゲンの人口は6000人弱だった。その後、第二次世界大戦の前夜には、従業員の数は5000人に膨れ上がっていたというから、その勢いが偲ばれる。この頃には、ポーランドやロシアから徴用された強制労働者も大勢働いていた。ホーナー一族の権力は絶大で、トロッシンゲンの政治家は、彼らの合意なしには、何も決められなかったという。
ホーナー社の権勢に影が差し始めたのは、ずっとあと、1970年代のことだ。その後、ホーナー社も、そしてハーモニカも、過去の栄光を取り戻すことは二度となかった。最盛期には5000人いた従業員が、現在では200人足らず。今でも超高級品はちゃんと作り続けているらしいが、いつまで続くかはわからない。1997年からは、台湾の会社がホーナーの首席株主となっている。
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