読んでいて居心地の悪くなる小説は数あれど、フランツ・カフカ『失踪者』の気まずい後味には格別なものがある。「ドイツからアメリカへやってきた青年が、ひたすらひどい目にあう」という単純なあらすじなのだが、どれだけ気が滅入るトラブルばかりが連続しても、続きが気になってなぜか本を閉じることができない。そのため読者は、主人公のさまざまな災難に最後までつきあう羽目になる。
事態の好転を願う読者の期待とは逆に、ページを繰るたびにこの優柔不断な青年の立場は悪くなるばかりで、読了後の爽快感は皆無という困った一冊だ。主人公には自主性や決断力がまったく欠如しており、そのだらしなさが読者にまで伝染してきそうな気がしてくる。カフカ作品の主人公は総じて意志が弱いが、わけても『失踪者』の中心人物である青年カールのだめさは際立ったものだ。読みながら何度も「ああ、もう」とため息をついてしまう。カフカは、いったい何を考えてこんな小説を書いていたのだろうか。
見ず知らずの男に金をたかられ、一度払ったが最後、味をしめた相手が職場にまでやってきてさらに金を要求し始めるといった場面の描写を、カフカはいかにもたのしそうに書き進めていくし、主人公がより窮地に立たされるほど、作品はいきいきと輝きだす。まるで、戸締まりをしていない家へ際限なく泥棒が入ってきてしまうように、主人公はどうしても周囲の干渉をシャットアウトすることができない。
このようにカフカは創作において、主人公を取り巻く奇妙な状況にこだわり、そしてまた状況に流されるひ弱な人物にこだわった。意志の欠けた主人公というのは、時には勇敢な主人公よりも興味をそそるものだ。カフカにとっては、主人公の意志が失われていること、ただひたすら受動的であることが重要だった。受動的な者だけが、奇怪なからくりを持つこの世界の謎の最深部へとたどり着くことができるというミステリアスさこそが、カフカ作品の持つ魅力なのではないか。それゆえに『失踪者』は、読者の神経を逆なでしつつも、途中で読むことを止められない魅力を持つのだ。
ビリー・ワイルダー監督の代表作『アパートの鍵貸します』(’60)は、奇妙な状況に取り込まれた主人公が、優柔不断な性格のために周囲から利用されるようすを描くコメディである。主人公の男性バド(ジャック・レモン)は大企業に勤める会社員で、不倫にうつつを抜かす上司に頼まれ、女性との密会場所として自分の住むアパートを提供している。ひとりの上司に一度アパートを提供したとたん、他にも希望者が殺到してしまい、気弱な主人公はどうしてもそれを断れない、という展開の物語だ。
いまあらためて作品を見直したときに感じるのは、ワイルダーとカフカの親和性である。ワイルダーがカフカを意識したのかどうかは不明だが、状況に流されるばかりの主人公がしだいに立場を悪くしていく過程をシニカルかつユーモラスに描く構造は、実にカフカ的であるように思える。観客は、都合よく利用される小心者のバドに苛立ちを感じながらも、物語のゆくえを見守ることとなる。
ワイルダーは劇中に、現実では考えにくい奇妙な状況を設定し、そこに放り込まれた従順な主人公がひたすら翻弄されるという語りの形式を好んだ。ギャングに命を狙われた男性ふたりが、女装してガールズバンドに潜入する『お熱いのがお好き』(’59)。悪徳弁護士の義兄にそそのかされ、大けがをしたふりで損害賠償で稼ごうと持ちかけられる主人公を描く『恋人よ帰れ! わが胸に』(’67)。ワイルダー作品の主人公たちは、危うい状況にみずから進んでふらふらと近づいていき、「自分は女性だ」と言い張ってみたり、歩けるにもかかわらず車いすに乗りながら「もう歩けない」とうそをついたりする。
彼ら主人公はあまりに思慮が浅く、用心が足りないのだが、その結果として、ほんらい出会うきっかけのない他者と出会い、コミュニケーションが発生することになる。それは「受動的であることによって、世界が開けていく物語」と言い換えることができそうだ。ワイルダーは、そこに新たなコミュニケーションの可能性を見ていたのではないか。
むろん、たいていの人はバドのように脇が甘くはないし、周囲に対して一定の防御をしながら暮らしている。問題は、バドが世界に対してあまりにも自分を開きすぎていることで、そのために劇中では、ありとあらゆるものが彼の内側へ侵入してきてしまい、混乱を起こすきっかけになる。その無防備さがトラブルの元でもあるのだが、同時にバドは、他の登場人物には経験できない美しさや豊かさに遭遇することにもなる。
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