グリード

序曲 スリーピング・ボム1—二〇〇五年秋 東京 大手町

企業買収者・鷲津政彦を中心に、金融の世界を描いてきた「ハゲタカ」シリーズ。その最新作となる本作では、アメリカの超巨大企業の奪取を目論むハゲタカ・鷲津に、アメリカ経済を背負う猛者たちが襲いかかります。 cakesでは、真山仁さんの渾身作、『グリード』の序曲を特別配信。鷲津の新しい闘いが、いま幕を開けます。

『グリード』の熱い書評(by永江朗氏by関口苑生氏)も、ぜひご一読ください。

二〇〇五年秋 東京 大手町

「若い頃に師と仰いでいた人から、強欲は善 greed is good だ、強欲こそがアメリカンドリームの原動力だと教わりました」
 小柄で貧相な男が、やや前屈みの姿勢で答えた。鷲津政彦—日本最強の企業買収者として知られている。そういう経歴の男がいかにも言いそうな言葉だと感じた北村悠一が、相手が不快そうに口元を歪めたのが引っかかった。

「鷲津さんご自身は、そう思ってらっしゃらないんでしょうか」
 男はゆっくりとした動きで体を起こすと、肘掛け椅子に深く座り直した。部屋を暗くして被写体をクローズアップしたいと、同行したカメラマンが注文をつけたせいで、広い会議室でインタビューしているにもかかわらず息苦しい。尤も、重苦しい雰囲気を醸し出している最大の原因は、目の前の男にあるのだが。

「自らの正しさを主張する輩は、胡散臭い」
 世間では胡散臭い代表のように言われている男にしては、意外な言葉だった。
「あなた方は、企業買収は死にかけた会社を救う善行だとおっしゃっているじゃないですか」
「少なくとも私は、そんな発言をした覚えはない。医者が、自らの施術を善行だと口にしますか。目の前に死にかけている患者がいて、それを救える技術を持っている。だから、仕事をする。そういうもんでしょう」
 さすがに詭弁が上手い。
「確かに、買収者を外科医のように言う方もいますね。ただ、私は、カネが人を幸せにできるのかとお尋ねしたかと思います。それは、善悪論ではないと思います」
 北村が返すと、鷲津の鼻から息がこぼれた。嘲笑したのだろうか。
「私にはそもそも幸せの定義がよく分からないんですよ。カネがなくても幸せを実感している人は大勢いる。カネがうなるほどあるのに、幸福を感じられない奴はもっといる。所詮は、幸せなんて各人の気の持ち方でしょう」
 北村の背後で鷲津を撮影していたカメラマンの手が止まった。甚く鷲津の理屈に感心しているようだ。

 確かに鷲津の答えは、正論だ。しかし、それでは取材の意味がない。
 まるで、北村の不満を察したように鷲津が言葉を継いだ。
「何かの理由で人が不幸になるとしたら、その人自身に原因があるのでは」
「最近流行の自己責任ってやつですか」
 これまでのニッポンでは、人々は勤勉だけをモットーに御上の言いつけを守り、企業のルールに従うことで、ささやかな安穏を手に入れていた。それがバブル崩壊後の危機の中で、政府は突然「明日からは、全て自己責任で生きてもらう。もはや国家も企業も、あなたを守らない」と宣言したのだ。
「自己責任なんて、別にはやりでも何でもありませんよ。動物が生き残るための第一の鉄則です。それをことさら騒ぎ立てたのは、あなた方マスコミでしょう」
 口調は丁寧だが、この男はずっと毒ばかり吐き続けている。
 どう考えても、気持ちよくインタビューを受けているようには見えない。質問しても即答せず、暫く考えた挙げ句に、的外れな答えばかりを返してきた。
 一体、彼はなぜ取材を受けたのだろう。

 二〇〇五年九月一一日、郵政選挙とも呼ばれた解散総選挙で、与党が圧勝した。国民に自己責任を強い、規制緩和とグローバルスタンダードという錦の御旗を掲げ、日本の莫大な資産を欧米に売り飛ばした総理を、国民は熱狂的に支持したのだ。
 一方、海の向こうでは英国でイスラム系過激派によるテロが起き、米国では巨大ハリケーンが猛威を振るったりと、世紀末のような出来事が相次いだ。

 そこで、北村が所属する 、僥倖ぎょうこう新聞では、「今、ニッポンは、そして世界は……」と題した連載企画を始める。今までの常識が覆された新しいスタンダードの中で、日本人はどのように生き残るべきか—それを“時の人”の言葉と社会現象で綴ろうというのだ。

 社会部から連載チームに参加した北村は、〝カネは人を幸せにするか〟というテーマの担当になった。求められているのは、日本人の情緒としての「幸せ」と、カネの関係を抉ることだ。
 北村は、カネの亡者のように言われているハゲタカ業界のトップに、取材を申し込んだ。断られるのは覚悟の上だ。過去に何人もの経済部記者が、ハゲタカファンドの雄である鷲津に取材を申し込み、ことごとく拒まれていたからだ。ところが意外なことに、鷲津はあっさりと応じた。

「なぜ、今頃になってこの国で、自己責任論が取り沙汰されるのだと思いますか」
 どう切り崩そうかと考えていると、相手が質問をぶつけてきた。
「政府が国民を守るための、大義名分では」
「この国に、ようやく資本主義が到来したからですよ」
 言っている意味が分からなかった。
「すみません、日本は資本主義国家じゃなかったんですか」
「資本主義のルールNo.1は、自己責任ですよ。リスクを取って投資して、成功しても失敗しても、それは投資する者の責任です。また、損した人を守る義務なんて、はなから国家にはありません」
 面白いことを言う。斜に構えず、北村はもう少し素直に話につきあってみようと決めた。

「一方、日本は戦後ずっと国家が産業を牽引育成し、企業がそれに従った。これはね、統制経済です。あるいは共産主義国家と呼んでもいい。労働者を手厚く支援し、社会福祉制度も整備し続けた。本来ならば資本主義が進めば進むほど、格差は広がり貧乏人が増え、彼らは社会からスポイルされるのが常識なのに、この国は政府ばかりか企業、つまり資本家までもが家族主義を貫いた。こんな資本主義はないでしょう」

 日本が世界最高の社会主義国家だったという見解は、バブル経済が崩壊した後、社会学者などが好んで発言しており、目新しくはない。だが、バブル経済崩壊後に、日本に本物の資本主義が到来したという鷲津の主張は、社会学者らの意見より説得力があった。

「カネが幸福論と絡めて話されるのも、資本主義がじわじわと広がった結果でしょ。今まで、この国では、幸せはお金なんかでは買えない、と言い続けてきたんですから」
 そういう時代が終わった、そう言いたいのか。
「先ほど、強欲は善だと教わったと言いましたよね。あの発想は、まさに資本主義礼賛のためにあるんですよ。昔ながらの日本の考え方ならば、それは破廉恥以外の何物でもなかったのに、今では一定数の支持を得られるようになっていると思いませんか」

 カメラマンが撮影を終えたと耳打ちした。先に帰るつもりらしく、機材を片付け始めた。それに合わせたように秘書が「あと、五分でお願いします」と言い出した。
 何を言ってやがる。ようやく話が面白くなってきたのに、時間なんて気にしてられるか。北村は愛想笑いでごまかして、インタビューに集中した。
「でも、鷲津さんは、強欲は善だと考えていない。なぜです」
「私が古臭い日本人だからでしょう」
 笑わせるな。あんたのことを、肌は黄色いが中身は白人と揶揄して、バナナ野郎と呼ぶ奴が大勢いるんだ。

「では、昔気質かたぎの日本人の鷲津さんは、この国が徐々に資本主義的発想に冒されていくのを、憂えているのでしょうか」
「それはないな」
「なぜです。日本人がアメリカ人になっていくんですよ」
 おまえは全然分かっていないという意思を、鷲津は態度で示した。北村はムッとしたが、ならばと、鷲津が言葉を続けるのを待った。
「日本人は、アメリカ人になりたいと思っているかも知れません。でも、あの多民族国家の生理を理解するのは無理です。強欲がアメリカンドリームの原動力というのは、皮肉でも何でもないんですよ。アメリカは自由の国を標榜していますが、自由だからこそ、生き抜くためには他人を蹴落とし、貪欲に突っ走るしか生き残れないんです。それが、アメリカです。しかし、日本でそんなことをしたら、生きていけないでしょう」
 主張が矛盾しているとしか思えなかった。北村は混乱してきた。

「おっしゃっていることは分かりますが、だとしたら、なぜ強欲主義イコール善だという意見が日本でまかり通るようになったのですか」
「誰もそんなことを言ってませんよ。ごく限られた者が、自己正当化のためにうそぶいたのを、あなた方が拾っただけに過ぎない。そもそも北村さん、あなただって、カネで人が幸せになんかなれないと思ったからこそ、私にインタビューに来たのでは」
 それは、そうだ。だが、面と向かって言われると反論したくなる。
「おっしゃる通りです。私もカネと幸せは同義語じゃないと思います。でも、時にカネで幸せを買いたいと思うこともあるのでは」
「それが、あの記事に繋がるわけだ」
 何の話をしているんだ。

 秘書が北村に近づいてきて、クリアファイルを差し出した。北村がかつて大津支局で県警キャップを務めていた時に書いた記事のコピーが入っていた。若い営業マンが孤老宅を訪れ、いつでも金貨と交換できるという証書を言葉巧みに売りつけた詐欺事件の被害者を訪ね歩いた。それをまとめたものだ。

「〝孤独な年寄りに取り入り、次々とカネを巻き上げていった手口は、悪質だ。しかし、被害者の中には、騙されていると分かりながらも、出資した者もいた。『息子にも娘にも見捨てられた私が、あんな楽しい時間を過ごさせてもらった。それだけで充分嬉しかった。そのお礼だと思えば、お金を出すぐらい何でもなかった。どうせ死ねばカネは使えない。ならば、生きたカネの使い方をしたかった』という言葉が、脳裏から離れなかった—〟いい記事だ。生きたカネの使い方という言葉がいい」

 鷲津に記事を読み上げられて、北村は顔が赤くなるのを感じた。逃げ出したくなるほど恥ずかしかった。そもそもそんな記事を書いたことすら忘れていた。
「どこでそんな化石のような記事を見つけてきたんです」
「最低限の下調べですよ。これを読んであなたに会ってみたくなった」
 これがこの男のやり口か。とっておきの 情報 ネタ を手にしながらおくびにも出さずに、ふざけた禅問答で翻弄する。挙げ句の果てに絶妙のタイミングで、切札をぶつけてくる。俺は完全に遊ばれている。

「冗談でしょ」
「本当ですよ。私は、原則的にマスコミの取材はお断りしている。特に最近の経済記者は、数字ばかり並べ立て、二言目には経済的合理性なるものを振りかざす。全部クソですよ。企業買収で最も重要なのは、数字では計り知れない人間の営みなんです。それを全く理解できていない。挙げ句に、カネがあれば、幸せになるなんぞとぬかす連中を礼賛する。しかし、この記者は違うかも知れないなと思ったんですよ」
 ハゲタカのお眼鏡にかなったとは光栄だと、喜べとでも言うのか。

「カネは道具です。それをちゃんと使いこなせるかどうかは、人間次第。あなたは、若い頃にそういう取材をしたのでしょう。ならば、私に愚問をぶつける必要はないでしょう」
 一丁あがり—。俺はおちょくられて終わるわけか……。

 鷲津の背後に秘書が立った。取材は終了だと言いたげだ。落ち込んでいる暇はない。北村は、もう一つ聞いてみたかった問いを口にした。
「あなたはかつて、腐ったこの国を買い叩くと、豪語されています。それは、この国を幸せにするために国を買おうとしたのでは」
 鷲津が白い歯を見せた。だが、すぐには答えなかった。秘書が何度も時計を見ている。片付け終わったカメラマンは立ち去りもせず、前のめりになって話に聞き入っていた。たっぷりと気を持たせてから、鷲津は口を開いた。

「私がカネで何かを買おうとする時の理由は、一つしかありません。欲しいからです」


単行本『グリード』発売! ますます深みを増す人間ドラマの妙にぞくぞくすること間違いなしです。特設サイトで公開中の著者メッセージもお見逃しなく。

グリード 上 グリード 上
真山 仁

講談社

ケイクス

この連載について

グリード

真山仁

真山仁さんの最新作『グリード』(講談社)が10月29日に発売となりました。バブル崩壊後の日本を舞台に、外資系バイアウト・ファンド(ハゲタカファンド)マネージャー鷲津政彦を中心に、不良債権処理や企業買収といった金融の世界を描...もっと読む

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コメント

hal_31 あー、これ面白い。続きが気になる…ハゲタカも読もうかな。 5年弱前 replyretweetfavorite