戦争は終わったのか
日本の戦争は1945年に負けて終わった。だから後代の私たちは済んだこととして「あの戦争」と呼ぶ。そしてそれに拙速に評価や判断を下そうとまでして、知らず歴史の外側にでも立ったような気分に陥る。軍事・戦闘という意味では確かに「あの戦争」は終わった。日本は平和国家として再生した。そう声高に語れる。だが同時にそれは、戦後の内実を忘れた怠惰がもたらした錯誤かもしれない。日本の戦争に内在していた精神は敗れることもなく、1945年以降も生き続けていたのではないだろうか。平和国家の、その経済という土台において戦争の精神は生き続けていたかもしれない。そう疑わせるのは、「もはや戦後ではない」と言われた時代が過ぎるころになって日本経済を支えてきた人々がてれ笑いしながら、「日本は経済では勝つのだ」と語ったものだったからだ。冗談めかしてはいたが真実は含まれていた。
昭和時代の後期になお、戦争の精神の一部が生き続けていたことは、表向きの「歴史」より、庶民の生活史に組み込まれたドラマや大衆小説のなかで実感を伴って知ることができる。おそらくもっとも上手に映し出したのは山崎豊子の長編小説『不毛地帯』だろう。当時49歳の山崎は、日本の高度経済成長期が終わったとされる1973年6月から1978年8月までの5年余をかけて『サンデー毎日』にこの長編を連載し、「日本は経済では勝つのだ」と思う人々に答えた。
山崎の思いは昭和の人間の思いだった。彼女自身の人生も昭和という時代に重なっている。大正13年(1924年)、彼女は大阪・浪速商人の町、船場の商家に生まれた。1944年(昭和19年)に現在の京都女子大学(旧制京都女子専門学校)の国文学科を卒業して毎日新聞大阪本社に入社し、学芸部で女性記者となり、当時同部の副部長だった井上靖の影響で小説を書きはじめた。10年間の作家修業を経て、生家を見つめた処女作『暖簾』(新潮文庫)を1957年に発表したのは、上司の井上から「人はだれでも自分の生家を材とすれば一作は小説が書ける」と諭されたせいもあった。翌年、同じく大阪の風土を生かした作品として、吉本興業の創業者・吉本せいをモデルにしたとされる『花のれん』(新潮文庫)を発表し、直木賞を受賞。これを機に専業作家となった。すでに1951年に退社し専業作家となっていた井上は彼女に「橋は焼かれた」との言葉を贈った。
山崎豊子は当初、馴染み深い大阪の風土に根づいた小説を得意としていたが、1963年からは大学病院を中心とした医療制度の問題を描き出す『白い巨塔』(新潮文庫)を『サンデー毎日』に連載し、社会派作家の道を踏み出した。同作品は好評で続編も書かれ、1969年に出版された。翌年1970年からは、経済界の実態を描き出すために、神戸銀行(現在の三井住友銀行)をモデルとしたとされる小説『華麗なる一族』(新潮文庫)を『週刊新潮』に連載開始し、1973年に出版された。この二つの巨編で彼女は社会派作家の地歩を固め、同年、満を持して、戦後日本の経済活動の中核となった商社の実態に踏み込むべく、『不毛地帯』の連載を『サンデー毎日』で開始した。
連載は5年に及び、76年に一、二巻が、78年に三、四巻が出版された。後、文庫収録も長く四巻本だったが、現在は五巻本となり、同じく五巻本の『沈まぬ太陽』と並んでいる。ちなみにどちらが長いか。文字数の比較はしていないが文庫ページ数で見るかぎりでは、『不毛地帯』が長い。最長作品と見てもよいかもしれない。だが物語の巧みさから、長編を感じさせずに読み通すことができる。
軍人がビジネスマンに転身するリアリティ
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