——前回は、道徳の必要性の話から派生して、「いじめ」はここ10年の間に出てきたものだというお話で終わりました。それって、どういうことなんでしょうか?
岡田 厳密に言うと、僕らのときと今の20代以下の経験しているいじめは、まったく質が違うということです。
——弱いやつがみんなにからかわれるというのは、昔からあったと思うんですが
岡田 そういうときって、学級会が開かれなかったですか? それこそ、マンガやアニメみたいに、女子の学級委員長が「○○くんが××ちゃんをいじめてます!」とか言って。今は、学校が道徳の場として機能してないですから、そういう風にはならないんですよ。形としては残っているでしょうが。取り巻く環境すべてがいじめと一体化していて、誰も助けてくれないんです。
だから、学校が道徳の場として機能していた世代とそれ以降の世代とでは、問題の見え方が違うはずです。いじめ問題というのは、本当は若い言論人に語ってもらわないといけないことなんですよね。
——いじめについて語る若い言論人はあまりいないんですか?
岡田 いないですねえ。多分、この社会に関して「はい、問題があると思います」と言ってしまうと、自分がいじめられる対象になってしまうのを恐れているからではないかなあ。最近の若い言論の人って、いじめられっ子だったイメージあるし(笑)。
——岡田さんご自身はいじめられたりしなかったのでしょうか? マンガの『アオイホノオ』(島田和彦・小学館)に若き日の岡田さんが出ていますが、昔からめちゃくちゃ変わった性格じゃないですか。そういう人って、いじめられそうだと思うんですけど……。
岡田 僕はいじめられていないですよ。いじめというのは、友達がいる人間に起きることです。僕は、高校生のときには、友だちがいないことが平気になっていましたから(笑)。むしろ、自分の時間を邪魔されたくない、友達がいたら話しかけられて困るという感じ。自分で選んだ相手にしか話しかけなかったです。
——それはすごいですね(笑)。たしかに、友達がいなかったらいじめられないですね。
岡田 本来友達を作る能力がないとか、分に合っていないのに友達を求めると、えらい目にあうんですよ。別に友達がいなくてもいいんです。友達がいても、自分がいじめの被害者になった時に、知らんぷりする人しかいないってこともありますからね。いじめに積極的に参加しないからといって、そんなやつらと友達になってどうするんだと思っています。
——今はみんなとりあえず仲良くしようとしますもんね。だからこそいじめが存在するというのは、すごくありそうです
岡田 友達なんか要らないんだと思っていると、いじめ問題自体は発生しないですけど、別の弊害は生じます。なので、これも合理的な解法ではなくて、道徳的な問題なんでしょうね。
——個々人の振る舞いを変えるのではなくて、いじめを生まない仕組みを作ることはできないんでしょうか?
岡田 いじめを解決するシステムというのは、昔からないんですよ。朝日新聞の「いじめられている君へ」というコラムで、漫画家の西原理恵子さんが、「うそをつけ」と語っているのが象徴的です。
うそをつけ。自分を守れ。16歳になるまで学校に行くな。逃げて逃げて自分で自由をつかみ直せ。そうやれば生きていることが楽しく思える日が来るよ。と、語っているんですが、この西原さんのアドバイスは、システムが個人を助けてくれないことを認めたものなんですよ。西原さんでさえ、そうしたぎりぎりのところでしか、アドバイスをすることができない。
——なるほど。インターネットでいじめの加害者の名前を晒すという現象が発生するのも、システムではいじめを助けられないからなのでしょうか?
岡田 大津いじめ事件でのことですね。あれは、すごく興味深い現象です。僕にとっては、いじめそのものよりも気になることだし、道徳で語るべき問題でもあります。加害者を晒すという行為も、実はいじめと同じですよね。安全圏から石を投げている。リンチですよ。
いじめがどんなにひどいもので、その加害者の名前を手に入れたとしても、僕はインターネットで名前を晒そうとは思わない。ましてや、加害者の親の名前だとか、おじいちゃんおばあちゃんの名前まで晒すとか、信じがたいですよね。僕の知り合いを思い浮かべたときに、そういう人がいるとも思えない。でも、それをやってしまう人がいる。
——たしかに。自分の知り合いが書き込みをしている姿は想像がつかないです。
岡田 では、晒しをする人たちというのは、僕らと全然違う異常者なのか? というとそうではない。きっと道徳意識がずれているんですよね。前回お話した、1000台中60台の車の運転手が、あえて路肩に乗り上げて動物をひき殺そうとするという話と通じるんです。これは自我の不備によって起きる問題だと思っています。特定の個人の自我ではなく、人間全体の自我の不備。つまり、名前晒しをしない僕らにもある不備です。
例えば、バットマンだとか、スパイダーマンだとか、アメリカンヒーローっていますよね。日本でもよく映画が公開されています。あれ、かっこいいと思いません?
——思います。
岡田 でも、彼らアメリカンヒーローのしていることは、実はインターネットで匿名でいじめ加害者を晒すことと同じなんですよ。だって、社会の中で不正義があった場合に、アメリカンヒーローという強い個人が立ち上がるでしょう?
彼らは、正義や自分の周囲の人々のために暴力行為を行うことが許されている。しかし、顔や名前は隠している。これってリンチですよ。大津の事件で起きたことと同じことです。匿名によるリスクのない暴力行為というのは、「正義のためなら仕方ない」ということがアメリカンヒーローの世界では認められているんです。
——たしかに似ていますね。考えてもみませんでした。
岡田 「本人の名前ならともかく、家族の名前まで晒すのはいかがなものか。そういう人間はオレの周りにはいない」と、晒しに対して嫌悪感を抱く人ですら、アメリカンヒーローの活躍には共感してしまう。要するに、似たできごとでも、自分に関わることだと「なんか嫌だ」だと思うことができるんだけど、少し離れたところでやっていると、「なんか好き」と思ってしまったりする。この溝は、自我の不備ゆえに生じるんだと僕は思うんです。
——それを埋めることができるのが、道徳だということでしょうか。
岡田 そうです。どんな問題でも、客観的な合理性や科学的議論というのは非常に綿密になされるのだけど、「なんか嫌だ」というような感情の部分について、みんなで考えていくというのが、手薄になっているんですよ。この「嫌だ」という皮膚感覚は、おそらく市民感情とも言い換えられます。大体の議論では「感情論にすぎない」と切り捨てられてしまう、その部分こそを、精密にやっていかないとならない。原発の問題だってそうですよ。
——えっ、原発の問題も道徳の話になるんですか?
(次回へ続く)
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