50代、人間関係にまつわる愚痴
蘇我蝦夷(政治家)
?年-645年。飛鳥時代の豪族、政治家。蘇我馬子の子。名は「毛人」とも記し、豊浦大臣とも称された。父より大臣の地位を継ぎ、のちに子の入鹿にその座を譲る。推古天皇の崩御後、舒明天皇を擁立し、入鹿とともに専横を極めた。
息子の行動で一番の豪族から滅亡へと進んだ蘇我氏
聖徳太子の没後、専横を極めたのが 蘇我 蝦夷と入鹿の父子である。
彼らは意のままに皇位を操ろうとし、反対勢力は容赦なく叩き潰した。また、たくさんの民衆を動員し、自分たちのために巨大な墳墓を築造させもした。自邸のことを「宮門」、子どもたちを「王子」と呼ぶなど、まるで皇族のようにふるまい、実際にその勢いは、天皇家に勝るかのようにさえ見えた。
『日本書紀』には、聖徳太子の娘の
「蘇我臣、専国の政を擅にして、多に行無礼す。天に二つの日無く、国に二の王無し。何に由りてか意の任に悉に封せる民を役う」
(蘇我氏は、もっぱら国の政治をほしいままに操り、非道なことをしている。天に二つの太陽がないように、国に二人の王はいない。なぜ意のままに国民を使役するのか)
という批判が載っている。
しかし、『日本書紀』を読み進めていくと、蘇我蝦夷と入鹿の父子の間で、やや考え方に違いがあるようにも思えてくる。こののち、息子の入鹿は、皇位継承問題に絡み、邪魔な山背大兄王を死に追いやってしまう。山背大兄王とは、あの「聖人」聖徳太子の子どもである。