40代、病気にまつわる愚痴
真田信繁(幸村)(戦国武将)
1567年-1615年。安土桃山時代の武将。信濃国(長野県)上田城を本拠地とする真田昌幸の次男。父に従い武田、上杉、豊臣などに臣従する。関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、配流となる。のちに大坂の陣で豊臣方として大活躍を果たす。
極貧生活を送っていた「日本一の兵」
猿飛佐助、霧隠才蔵ら真田十勇士を率いて徳川相手に獅子奮迅の大活躍を見せた真田幸村。ただし、これらの話のほとんどは後世のつくり話。「幸村」という名前も、信頼のおける史料には登場しない。本名は「真田信繁」である。
実際の真田信繁は、生まれたのが戦国の世の終わり頃であることや若い頃から上杉家や豊臣家に人質や近臣として仕えていたこともあり、実戦経験は少ない。一般には、秀吉の天下統一最後の戦である「小田原の陣」が初陣だったといわれる。その前の第一次上田合戦に参加していたとの説もあるが、いずれにせよ、実戦経験はあまり豊富ではない。信繫が成育した頃には、戦国の世は秀吉によってほぼ平定されていたのである。
しかし、天下人・豊臣秀吉が亡くなると、世は再び乱れる。豊臣秀頼を擁する石田三成の軍(西軍)と徳川家康率いる軍(東軍)との天下分け目の争い「関ケ原の戦い」が勃発した。
この時、真田家は父昌幸と信繫が西軍、兄信幸が東軍に参加した。どちらが勝っても真田家が存続するように計らったためだともいう。
この戦いにおいては、信繫らは関ケ原での本戦には加わらず、上田城にあって家康の嫡男・秀忠の軍に手痛い打撃を与える大活躍をしている。