織田信長「もはやどうしようもない」

歴史に名を残す人物たちも、実は「愚痴」をこぼしながら生きていた! 渋沢栄一から夏目漱石、豊臣秀吉にナイチンゲールまで、人生の苦境で言わずにおれなかった愚痴150篇。女性への未練、お金の無心や仕事の焦り、家族への恨みなど現代人と変わらない不平不満です。読めばなぜか勇気がわいてくる、愚痴ノンフィクション! 10月21日発売の近刊『人間愚痴大全』より特別公開します。(提供元:小学館集英社プロダクション)

40代、仕事にまつわる愚痴

織田信長(戦国武将)

1534年-1582年。尾張国守護代の一族の家に生まれる。徳川家康と同盟を結び、尾張国を平定後、斎藤、浅井、朝倉、武田などを滅ぼしたほか、本願寺、延暦寺なども攻撃。天下統一にあと一歩と迫った。絢爛豪華な安土城を築いてもいる。

天下統一の目前、果てる直前に残したひと言

織田信長は、数ある戦国武将たちの中でも、特に人気の高い武将である。

彼が26歳の時、桶狭間の戦いにおいてわずかな兵で東海の大大名今川義元を破ったのは有名だ。これにより信長は天下有数の大大名になった、と思っている人も多いようだが、実際は少し違う。

この戦は、大大名今川の侵略を防いだ、というだけであり、今川の領地を奪ったわけでもなく、今川家は以後も存続している。織田家はその後も尾張一国を治める大名にすぎず、隣国の美濃国攻略に約7年の月日を費やしている。

信長が天下に名乗りを上げるのは、美濃国攻略の翌年、室町幕府の将軍足利義昭を奉じて入京したことにはじまる。これにより、上方(京阪地区)の要所を抑え、天下に最も近い大名と称されるようになっていく。

信長と将軍足利義昭との間を仲介したのが明智光秀である。その後、明智は織田家有数の家臣となる。信長の天下統一事業が進む中で、中国地方は豊臣秀吉、北陸は柴田勝家、関東は滝川一益が担当し、近畿は明智光秀がその任を負った。当時の日本の中心部を任されたわけで、信長の期待の重さがわかる。

1582年、織田は宿敵武田を滅ぼした。いよいよ天下統一はすぐそこまで、という状態にまで近づいたのである。その2カ月後、信長は京に入った。上機嫌に公家などを相手に酒宴、茶会などを催していたという。その時の宿所は、本能寺であった。

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なぜか、勇気が出てくる。不平不満の150篇。

人間愚痴大全

福田 智弘
小学館集英社プロダクション
2021-10-21

この連載について

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なぜか勇気が出てくる 人間愚痴大全

福田智弘

「今日も飯はうまくない」「アルコールでごまかすより外なかった」 天才と呼ばれる作家に芸術家、世界を変えた政治家に勇猛な武将まで、歴史に名を残す人物たちも、実は「愚痴」をこぼしながら生きていた! 渋沢栄一から夏目漱石、豊臣秀吉に...もっと読む

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