40代、不遇・人生にまつわる愚痴
種田山頭火(俳人)
1882年-1940年。山口県防府町(現防府市)生まれ。本名、正一。五・七・五の音律にとらわれない自由律俳句で人気の俳人。荻原井泉水に師事。出家して漂泊の旅に出、さまざまな句を詠んだ。全国に600以上の句碑がある。
世の中の矛盾に耐えられない
自由律俳句の名手として人気のある種田山頭火。彼が数えで50歳(満49歳)の年に書いた小文にこうある。
「私は労れた。歩くことにも労れたが、それよりも行乞の矛盾を繰り返すことに労れた。(中略)応供の資格なくして供養を受ける苦脳悩には堪えきれなくなったのである」
43歳で出家した山頭火は、その後托鉢して歩く旅に出たのだが、「それにも疲れた。なによりそんな資格も値打もないのに、施しを受けて回る矛盾に疲れた」といっているのだ。
ここで、これまでの山頭火の人生を振り返ってみよう。
山口県の大地主の子として生まれた彼に最初に降りかかった不幸は、10歳で母を亡くしたことだろう。自死である。
のちに俳句を学び、早稲田大学に入ったが、神経衰弱のために退学することになる。その後、帰郷して父とともに酒造業を営み、27歳で結婚。翌年に子どもも生まれている。
しかし、34歳で酒造業は破産。熊本で古書店などを開いたが、結局、妻とも別れることになる。その後、東京に出て図書館で働いたこともあったが、関東大震災の際、社会主義者と間違えられ、拘置所に入れられるという苦い経験もする。