20代、不遇・人生にまつわる愚痴
与謝野晶子(歌人)
1878年-1942年。明治から戦前まで活躍した歌人。文芸誌『明星』を主宰する与謝野鉄幹と恋に落ち、結婚。処女歌集『みだれ髪』などに収められた情熱的な恋の歌は、今でも多くの人に愛されている。他に歌集『小扇』『舞姫』のほか共著もある。
批判を覚悟で、反戦を叫んだ詩
「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君」
などの情熱的な短歌で知られる与謝野晶子。菓子商の娘として生まれた彼女は、22歳の若さで『明星』に短歌を発表。その翌年、同誌の主宰者である与謝野鉄幹と結婚し、恋の歌に磨きをかけていた。
そんな彼女には、2歳年下の弟・籌三郎がいた。1903年、彼女が25歳の年に父・宗七が亡くなったのだが、その後、実家の菓子商を継ぐことになったのは、籌三郎であった。
翌年、世界をゆるがす大事件が起きた。日露戦争の勃発である。
晶子の弟・籌三郎にも従軍命令が下った。任地は、激戦と伝えられる旅順港。その時、籌三郎の妻のお腹には、新しい生命が宿っていた。
同年9月、晶子は『明星』に一篇の詩を載せる。それは名歌人与謝野晶子の詩というよりも、弟を戦にとられた姉の魂の叫びだった。
「ああおとうとよ君を泣く
君死にたもうことなかれ
すえに生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや」
反戦詩として知られるこの歌の一節が、冒頭に掲げたものである。