40代、仕事にまつわる愚痴
劉備(皇帝)
161年-223年。中国・蜀の王。字は玄徳。魏の曹操、呉の孫権とともに三国時代の一角をなす。関羽、張飛らと桃園の契りを結び、軍師諸葛亮(孔明)を味方にして戦った。日本の卑弥呼とおおよそ同時代の人間である。
活躍の機会に恵まれない時期
「三国志」でおなじみの劉備(玄徳)は、幼い頃、貧しい暮らしをしていた。父の死後は、母と二人で筵を織って生活していたという。
やがて、漢の治世に乱れが生じると、各地で反乱が起きる。この乱世を制し、功成り名を挙げようと、兵を挙げる武将たちも多くいた。
劉備は、漢を建国した劉邦と同じ「劉」姓を持っており、自ら漢の皇帝の末裔だと称している。自分はいつまでもみじめな暮らしを続け、地方で朽ちたまま終わる人間ではない。そんな自負もあったのだろう。やがて、劉備も挙兵する。義兄弟の契りを交わしたという関羽(雲長)、張飛(益徳)ら強力な仲間がともに立ち上がってくれた。
徐々に勢力を増していった劉備だったが、39歳の年に袁紹に与し、曹操軍と「官渡の戦い」で刃を合わせた結果、大敗を喫してしまう。以降、劉備は劉表という豪族のもとに身を寄せ、不遇の時を過ごすこととなった。一方で、袁紹、劉備らを倒した曹操は徐々に天下を制するべく力を蓄えていた。
少し時が経ち、劉備が厠へと向かった時、ふと見ると、自分の太ももに贅肉がつき、太りはじめたことに気づく。