30代、お金にまつわる愚痴
徳川吉宗(将軍)
1684年-1751年。徳川御三家の一つ紀州(和歌山)藩に生まれ、兄の病死によって紀州藩主となる。のちに徳川宗家を継承し8代将軍に就任。「享保の改革」を断行し、上げ米の実施、定免法の採用、目安箱の設置などを行った。
名君も頭を抱え続けた農民からの不満
徳川家康の死去からちょうど100年。幕府の体制は目に見えて悪化していた。
深刻なのが財政の悪化だ。原因はいくつか挙げられる。4代将軍家綱の時代に起こった明暦の大火もその一つ。10万人を超える死者が出、江戸城天守閣も失われるという大災害であり、これによる復興事業に多額の金銭が使われた。
続く5代将軍綱吉は、護持院、護国寺など寺社の造営を積極的に行ったのだが、それも財政に大きな負担を与えた。
時の財政担当者である荻原重秀は、貨幣に含まれる金の量を少なくすることで財政を賄おうとした。これは一時的に効果が上げたのだが、やがて、インフレなどを引き起こすことにもなった。
次の6、7代将軍に仕えて政治を行った儒学者の新井白石は、金銀の質を上げ、貿易を制限するなどで財政を賄おうとしたが、結局、成功しなかった。白石が学者であったために理想主義に走って失敗したともいわれるが、それだけではない。6代将軍家宣は47歳で将軍となり3年で死去。跡継ぎの7代将軍家継は4歳で将軍となり、なんと7歳で死去。白石は合計7年ほどしか政治ができなかったのである。