カブと油揚げの味噌汁。これがメーンディッシュという生活なんて考えたこともなかった
さて、いよいよモノ捨ても最終段階である。洗面所まわり、洋服……と来て、最後のターゲットはここだ! 台所であります。
実は、「台所の断捨離」というのは案外語られることがない。私の経験では、「いま断捨離中で~」とおっしゃる方の話を具体的に聞くと、そのほとんどは「服」、次いで「本」の断捨離である。台所の断捨離とは、そもそも取り組む人が非常に少ないのある。
ちなみに、本コラムでも何度か紹介した世界のこんまりさまの名著『人生がときめく片づけの魔法』でも、台所の片付けについての記述はほとんど登場しない。
それにはちゃんと理由があって、こんまりさまは「残すか捨てるかの判断がしやすいもの」から始めていけばモノの片づけは必ず成功すると強く説いておられるんだが、その具体的メソッドによれば、台所用品が登場するのはほぼ最後尾なのである。すなわち台所用品とは、「片づけに半生を捧げてきた」こんまり様の経験値から見ても、最も「残すか捨てるかの判断がしにくいもの」と認定されているようなのだ。
ちなみに本によれば、最も片づけやすいのは「服」ついで「本棚」「書類」と続く。ってことは、世の多くの人が服や本の断捨離に励んでいるというのは、ある意味正しい行動なのである。
台所の断捨離はやった方がいい?
それでは、なぜ台所の断捨離はかくも難しいのだろうか? というか、そもそも台所の断捨離はやった方が良いものなのだろうか? 何しろこんまりメソッドによれば、不要なものを捨て片づけられる人生を始めることに成功すれば、「人生がときめき」「必ず幸せになれる」という。私もこの意見には大いに賛同する。しかしそのこんまりさまも、台所の片づけについては特に触れておられない。ってことは、台所などに無理に手をつけずとも、服と本と書類の片づけに成功すれば十分「人生はときめく」ということになる。
ならばそれで十分ではないか。なにも、最も困難とされる台所の断捨離とわざわざ取っ組み合う必要なんてないのでは……とお考えになる人が多くとも、それも当然のことかと思われる。
で、ここからは私の意見であります。
結論から言えば、私はおそらく日本でも数少ない、この台所の断捨離、それもただの断捨離ではない「大断捨離」をやり遂げた貴重な生き証人である。なぜそうなったかは後述するが、もちろん自分でもそんなことはちっともやりたくなかった。しかし止むに止まれぬ事情によりそうせざるをえなかったのだ。
ってことで、結果的に貴重な存在となってしまったのである。
で、その立場から言わせていただく。
まず一つ目。
これまで数回にわたって解説してきた、我が過激とも言えるモノ捨て、すなわち「洗面所まわり」と「服」のスーパー断捨離は、既に書いたように、行動が過激だった割には結果として我が人生が損なわれることはほとんどなかった。一言で言えば、やってみれば「案外どうってことなかった」んである。
だが台所は違った。大断捨離を敢行した前と後とでは、食生活は文字通り一変してしまった。どうってことないどころか、どうってことありまくりだったんである。そして、食生活とは人生において非常に大きな部分を占めるのでありまして、つまりは台所の断捨離をやるのとやらないのとでは、その後の人生は月とスッポンの差が生じるということを経験者としてまずは断言しておく。
その衝撃はあまりにも大きい。もしそれをやり遂げた暁には、これまで想像もしなかったような人生を歩み始めることになるのである。
それが良いことなのか、そうでないのかは、私にはなんとも言えない。そのくらい、私はそれまでの価値観、人生観を根底からひっくり返されてしまった。どこぞの雑誌や広告やインスタで見た「すっきりと片づいた暮らし」などというレベルをはるかに超えて、見たことも聞いたことも、そして想像したことすらないオドロキの暮らしが始まってしまったのだ。
なので、あらゆる人にこれをお勧めしようなどとは思わない。特に家族持ちの場合は要注意である。よほどピッタリと価値観が合う家族でない限り、一人で無理にこのようなことを推し進めればモメ事の種になることはほぼ確実である。
でも私に関して言えば、この想像したこともなかったオドロキの生活が大変に、もう驚くほど大変に気に入っている。というか、なるほどこれこそが最高の生活だったんだと目から鱗のハッピーライフを満喫していると断言させていただく。もう元の生活に戻りたいとは全く思わない。つまりは台所の断捨離という前人未到の大事業をやり遂げて本当によかったと、心の底からつくづく思っている。
ぼんやりした不安からの解放
何がそんなによかったのかはおいおい説明するが、ざっくり大きなところを言えば、私は「ぼんやりした不安」からウソのようにすっきりと解放されたのだ。不安とは結局のところ「不幸の予感」であろう。できれば死ぬまで幸せに生きていきたいけれど、お金のこと、健康のこと、人間関係その他様々なことによって、その幸せはいとも簡単に失われてしまうのだと私はずっと怯えていた。若さがあれば自分のパワーである程度のことははねのけていけるのかもしれないが、っていうかこれまではなんとかそのように戦ってきたつもりだが、歳をとればそうもいかなくなる。押し寄せる理不尽な現実をどんどん押し返せなくなり、つまりはこの先はきっと不幸になる一方だろうなーと、心のどこかで確信し、諦めていた。
でも今は違う。嘘でも強がりでもなんでもなく、そのような我が心の暗雲は綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。
……なーんていきなり大風呂敷を広げても「??」と思われるに違いありませんね。
ってことで、話を一旦元に戻す。
私はなぜ台所の断捨離に取り組まざるをえなくなったのか。まずはそこから説明したいと思う。
これまでの連載をお読みいただいている方はもう想像がつくと思うが、この台所の大断捨離に踏み切ったのも他の断捨離と同様、私が50歳で会社を辞めて、まさかの「ノー収納の家」に引っ越したことが最大のきっかけであった。
とはいえ、これまで述べてきた「洗面所まわり」「リビング」がほぼ収納ゼロだったのに比べると、台所収納はゼロというわけではなかった。小さなガス台の下とシンクの下はささやかな収納スペースとなっていて、多少の鍋や調味料(醤油や油など)を入れることができた。備え付けの小さな吊り戸棚もあり、3段の仕切りがあって食器を入れられるようにもなっていた。
ああよかったー! ……と、言いたいところが。
問題は、それぞれのスペースがあまりにも狭いということである。
もちろん、何を持って「広い」「狭い」というかはその人のライフスタイルによるが、私は相当な料理マニアで、本屋へ行くたびに必ずレシピ本コーナーをチェックするような人間であり、それまで住んだ家は「クロゼットが広いこと」に加えて「台所が充実していること」が絶対条件だった。全く今にして思えば「何様?」である。ま、それはそれとして、ゆえにこの狭さは非常事態以外の何物でもなかった。単純に言って、収納スペースはそれまで暮らしていた家の台所の4分の1といったところであろうか。となると、鍋だの食器だの食材だの調味料だの、すべてひっくるめて4分の3は処分しなければならないということになる。
美味しいものが食べられなくなる!?
4分の3……。