50代、仕事にまつわる愚痴
小津安二郎(映画監督)
1903年-1963年。昭和時代の映画監督。日本映画界初となる日本芸術院賞を受賞。20歳で松竹蒲田撮影所に入社、24歳で初めてメガホンをとる。以来『生れてはみたけれど』『麦秋』『東京物語』など小市民を描いた作品で定評を得た。
金儲け主義に走る同業者に苦言
戦前戦後の映画界で数々の名作を生みだした小津安二郎。
独特のローアングル手法で日本の小市民の生きざまを描き、いわゆる「小津調」を確立した名監督である。
そんな小津が、生前
「忰に映画なんぞ見るなと云うだろう」
(自分の子どもには『映画なんか見るな』というだろう)
などという言葉を発していた、といったら、少々意外ではないだろうか?
この言葉は、小津が55歳の時に『文藝春秋』誌に寄せた『映画界・小言幸兵衛』という小文の中の一節だ。その中で小津は
「一体、昔に比べて映画の水準は高くなっているだろうか」
と問いかけた後、
「先日、町へ出て常設館に入って、ある会社の予告篇を見た」
として、他人がつくった映画の内容に軽く触れている。
「オッパイは隠しているけれども殆ど臍すれすれまでにズロースをさげた女が出てきて、男と踊る。(中略)次のシーンは、カーテンの後で接吻する、接吻しながら踊る……。最近はこういうものが無闇と多い」
そして、その後にこう語る。