連日満席。なぜあの店は突然消えたのか【水明亭】

地元民から愛される絶品メニューがある。キャベツがぱりっと新鮮。漬け物はできる限り自家製。安い。女ひとりもOK。5条件を満たす定食屋を『東京の台所』の著者・大平一枝(おおだいらかずえ)が訪ね歩く。儲けはあるのか? 激安チェーン店が席巻するなか、なぜ地価の高い都会で頑張るのか? 絶滅危惧寸前の過酷な飲食業態、定食屋店主の踏ん張る心の内と支える客の物語。国立競技場の前にあった名店を振り返る。(提供元:扶桑社)

相席必至のちゃんぽん人気店は今

 オリンピックの記憶が幻のように遠くにある。その日私は、信濃町でぼうっと立ち尽くしていた。目の前に私の知らないコクリツがあった。
 信濃町の駅舎も、忽然と姿を表した円盤型五層の国立競技場も、歩道も、よそゆきの顔で佇んでいた。


水明亭跡地。手前が北部大番長寄休憩所の石碑、奥は三井ガーデンホテル神宮外苑の森プレミア

 たしかこのへんのはずだが。
 競技場の南側、神宮の森の一角に、生姜の風味が効いたちゃんぽんと、具だくさん塩味の皿うどんがやたらに旨い水明亭の跡地がなかなか見つからない。目の前は整備された緑の平地で、その向こうにピカピカのきれいなホテルがあるばかりだ。

 取材は2018年7月。「東京オリンピックに2度翻弄された幻の店【ちゃんぽん、皿うどん】の掲載は翌3月。3年前の記憶を必死にたぐりよせる。

 皿うどんは、鰹節と昆布ベースのさっぱりしながら深みのあるあんが、さつまあげやちくわ、かまぼこ、もやし、白菜と絡み合いながら、麺を覆う。驚きのモチモチ食感は、麺を40分蒸しあげる秘法の賜物だった。食べきれないかもと思いながら大皿のそれと対峙していると、必ず誰でも気がついたときには底が見えるまできれいになくなっている。どんな少食の人でもきっと。それほどうまい。すべての食材の味と資質が調和している。

 太麺のちゃんぽんも素晴らしかった。あっさりの奥にコクと深みがある半濁の久留米風醤油スープに、山盛りの野菜と豚こま。もやしのシャキシャキ感、長さ5センチはありそうな太切りさつまあげの食感にバランスも絶妙だ。
 清潔な白い三角巾にスニーカー姿の従業員が、気さくな笑顔でいつも手早く客をさばいていた。行くたびに知らない客と相席にされる大人気店は連日満席。閉店の2018年10月末日まで賑わっていた。



「なんでうちばっかり?って思いましたよね。土地はあちこちにこんなにたくさんあるのにって」
 父からのれんを継いで、20人近い従業員やアルバイトスタッフを回して店を切り盛りしていた本村律枝さんは、70代とは思えぬほどキビキビと動きが早く、背筋がピンとしている。それでいて誰に対しても穏やかで、ていねいな口調やまなざしに独特の気品が漂う。これまで見てきた定食屋のおかみさんとはどこかちょっと違う、印象的な女性だった。

 実家はその昔、久留米で大きな料亭をやっていたという。父危篤の連絡が来るまで、アメリカで心理カウンセリングの勉強をしていた。あわてて帰国以来52年間、店を切り盛りしてきた。律枝さんが取材中、一度だけ顔を曇らせた。
 突然、オリンピックのために立ち退きを国から要請されたからだ。

 要請は2017年。取材の前の年だった。じつは、水明亭は、1964年の東京オリンピックでも、用地として整備をしたいという理由で、立ち退きの憂き目にあっている。当時は300坪の和食屋を信濃町で営んでいた。だから、「うちばっかり」なのである。

 ここ、オリンピックの会場になるんですか。──コロナのコの字もなかったあのとき、私はのんきに尋ねたのだった。1年延期されるなど夢にも思わずに。
「会場じゃなくて、オリンピックのためホテルを建てますと麻生さんと森さんが言うの。だから立ち退いてくれって。じゃあそのホテルに入れるのかなと思ったら、こういう飲食は入れないんですって」(律枝さん)
 その夜、元気で明るい彼女はショックで眠れなかったらしい。

 国家の祭典のためなら……。断腸の思いで2018年10月末、店を閉めた。
 しかし1年半後、オリンピックはコロナのため開かれなかった。


「従業員のためにも早く、移転先を決めなくちゃなのよ」と、自分を奮い立たせるように快活に語っていた律枝さんに今回、連絡を試みたが、「事情により本人の取材は難しい」というお身内の返事だった。

 彼女の人生は店とともにあった。生き生き楽しそうに立ち働く姿に、お店と結婚したんだなと、勝手に想像をふくらませていた。いろんなお客さんからたくさん見合いの話をすすめられたけど気がすすまなかったのよと、冗談交じりに語っていた。
 従業員は勤務歴が長く、なかには親子2代という人もいる。10代で入店した子が結婚して出産。子育てが一段落したらまた働き出すこともあった。結婚式に呼ばれたり、かつての従業員が赤ちゃんを連れてきたり。「飲食は人手に悩まされるけど、私は恵まれました。だから早く次を見つけないとね」
 オリンピックは、彼女が50年余寄り添ってきた第二の家庭を奪った。

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台所の数だけ、人生がある。お勝手から見えてきた、50人の食と日常をめぐる物語。

東京の台所

大平 一枝
平凡社
2015-03-20

この連載について

初回を読む
そこに定食屋があるかぎり。

大平一枝

絶滅危惧種ともいわれながら、今もなおも人々の心と胃袋をつかみ、満たしてくれる「定食屋」。安価でボリュームがあり、おいしく栄養があって…。そこに定食屋があるかぎり、人は店を目指し、ご飯をほおばる。家庭の味とは一線を画したクオリティーに、...もっと読む

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コメント

elba_isola |大平一枝 @kazueoodaira |そこに定食屋があるかぎり。 歴史の教科書には載らないことなのだろうけども、華々しい歴史の影にあるものを認識していたい。 https://t.co/hCFZrHpkHo 13日前 replyretweetfavorite

agyrtria これは、酷くて辛い話だなあ⇨ 16日前 replyretweetfavorite

bronx2009 五輪、ろくでもない。 #スマートニュース 17日前 replyretweetfavorite

kantannoume 会場じゃなくて、オリンピックのためホテルを建てますと麻生さんと森さんが言うの。だから立ち退いてくれって。 17日前 replyretweetfavorite