50代、不遇・人生にまつわる愚痴
菅原道真(政治家)
845年-903年。平安時代中期の学者、政治家。学者の家柄に生まれ、文章博士となる。宇多天皇と藤原基経との間で起こった「阿衡事件」の解決に尽力し天皇の信任を得た。右大臣にまでなったが、のち大宰権帥に左遷された。
優秀すぎるがために失脚させられた道真
「天神様」といえば、「学問の神様」として有名だ。大阪天満宮、京都の北野天満宮、東京の亀戸天満宮、湯島天満宮(湯島天神)、九州の太宰府天満宮など、日本全国に信仰を集める神社が存在している。祭神はもちろん、菅原道真である。
菅原道真は、平安時代前期に学者、政治家として活躍した人物だ。宇多天皇、醍醐天皇に重用され、右大臣にまで出世した。当時衰退期に入っていた中国の唐に「難破の危険を冒してまで無理に使節を派遣する必要はない」と上申し、遣唐使をやめさせたことでも有名である。ちなみに、道真のこの提言から、わずかに十数年で唐は滅亡している。
しかし、道真の出世を喜ばない人々もいた。その代表格が藤原時平。時の左大臣で、藤原氏の長である。
藤原氏の人々は、さまざまな権謀術数を用い、ライバルの貴族らを陥れてきた。時平も同じだった。
この当時、道真の娘が、宇多天皇の皇子の妃となっていた。そこで、時平は、
「道真がこの皇子を天皇にすべく謀反を起こそうとしている」
との讒言を流し、道真を失脚させたのだ。これにより、道真は遠く九州、大宰府へと送られることになった。