60代、人間関係にまつわる愚痴
毛利元就(戦国武将)
1497年-1571年。中国地方の戦国大名。安芸国(広島県西部)の小勢力の次男として生まれながら、のちに家督を継ぐ。大内家の実権を奪った陶晴賢を厳島の戦いで破ったのち、山陰に勢力を誇った尼子氏も下して、中国地方10カ国を手中に収めた。
恨みを買った者が抱える不安
毛利元就は数ある戦国大名の中でも稀にみる成り上がりを見せた人物だといってよいだろう。多くの戦国大名は、幕府から一国の支配を任された守護(武田、今川など)や、守護の代わりを果たす守護代か、その一族(織田、上杉など)といった、いわば名家の出身である。徳川家康(松平)などはどちらでもないが、その父の代からほぼ三河国を制圧していた。
しかし、毛利元就は、安芸国(広島県西部)の一部を領する小勢力からのし上がり、やがて中国地方一帯を領する大大名にまでになっている。これほどの出世を遂げた人物といえば、農民の子から信長の後継となった豊臣秀吉を別格とすれば、一代で四国全土をほぼ手中に収めた長宗我部元親くらいのもの。その長宗我部も秀吉に敗れ領地が縮小したことを考えれば、やはり毛利元就は実に稀有な出世を果たした人物といってよいだろう。
元就の幼少期、中国地方では東に尼子、西に大内という二大戦国大名が勢力を競い合っていた。その狭間で生きていくために、元就は戦以外にもさまざまな手を使って勢力の拡大を果たした。特に有名なのが、次男元春を吉川家、三男隆景を小早川家という有力なライバルの家に養子として送り込み、その家を毛利家の一族として取り込んだことであろう。
こうして、毛利、吉川、小早川が連合することで、やがて大内、尼子という二大勢力を打ち破り中国地方一帯を治めることに成功するのだ。
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