父親になると決まったら、男はしっかりとミルク代を稼がなくてはならない。責任を果たさない男は街の女たちに袋叩きにされる。それが労働階級の常識だ。エリクも「がんばらなくちゃ」と意気込んだ。「頑張ってトヨコの原稿を高く売ってくるよ」
エリクに急き立てられて書斎に戻った
サヨと王子様は赤ちゃんを授かりました。王子様は女の子がいいと言います。愛らしいドレスで着飾らせて美しいお姫様に育て、裕福な王国にお嫁入りさせてあげたいようです。けれどもサヨには分からないのです。女の子だったらどういう生き方をさせてあげるのが一番幸せなのか。
万年筆が進まなくなり、豊子は筆記帳を閉じる。書庫部屋から物音が聞こえる。エリクが「共有財産」を物色しているのだろう。彼が平然とこういうことを始めた背景には、清国がヨーロッパの脅威になり始めたことによる清国人排斥運動がある。多くの人は清国人も日本人もひとくくりにしている。「黄色い移民」を追い出す法律を作れという声も一部で出ているが、既に現地国籍を取っている者や配偶者が現地国籍の者は免除するらしい。妻の財布も在住資格も掌握した法的庇護者という名の男は、豊子に「大きな目玉」で笑いかけるのだった。
豊子がつわりで苦しむようになると、エリクは書斎まで豊子の食事や紅茶を運び、洗顔の湯おけや着替えを運ぶようになった。豊子は実質的に書斎に閉じこめられることになったのである。
──ふりだしに戻った気分はどうだ、「姫君その一」よ。
エリクとは違う男の声が聞こえ、豊子は筆記帳から顔を上げる。
──女人が己の生きる世界を己で構築しようとしても、結局は男が構築する世界に連れ戻されるのだ。男こそが物語の創造主なのだ。
豊子はランプを掲げて書斎を照らす。
──おまえが私から解き放たれることはない。刃を突き立てられても私は滅びぬ。
今度は別の書棚から視線を感じる。おそるおそる近づいて本を取り出してみると、書棚の奥から大きな目玉がこっちを見ていた。豊子は悲鳴をあげて本を棚に押し戻す。ドアに駆け寄るが外側から鍵をかけられているのか動かない。ドアを叩いてエリクを呼ぶが来てくれない。
ランプの油が切れて書斎が闇に包まれる。別の明かりを求めようとしてつまずき、書棚に手をついた拍子に本がなだれ落ちてきた。フランス語訳の『源氏物語』。女性たちが自我に目覚めていく物語、いや違う、女は男の愛に翻弄されるだけの生きものという話なのだ。ドイツ語訳の『平家物語』。女性も女性なりに戦を生き抜こうとしたという物語、いやそうではない、女は男の作る世界に翻弄されるしかないという話なのだ。いや、違う。そんな内容ではなかったはずだ。
書斎の窓から月明かりが差しこみ、床の一部がきらりと光る。本の下敷きになったまま豊子は手を伸ばす。壁に掛けていた鏡だ。本能的につかんで引き寄せた豊子は凍りつく。あの「目玉」が鏡のなかから豊子を凝視していた。