思春期になると男子の方が成績が伸びる?―『舞姫』4

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ正しい物語である」と。そんな神の支配する世界に生きる内気な姫さよが次に飛ばされた物語の世界は、『舞姫』。女性初のドイツ留学を叶え、自分を理解してくれる男性に出会ったかに見えたが、それは幻想であった。そんな中、失意の日々を送る彼女に近づくもう一人の男性がいた。河出書房新社から好評発売中、雀野日名子さんの痛快エンタメ小説をお届け。(提供元:河出書房新社)

〖姫君、二人目の王子と出会う〗


六月末。王立図書館で文献を筆写していた豊子とよこは、閉館の鐘の音に溜息をついた。次はどこで時間を潰そう。婚約が白紙になってからフランクル家には居づらくなった。リヒャルトも多忙を理由に伯母夫妻を訪ねなくなり、居間のピアノは子どもたちの玩具になった。

相沢郷あいざわごうから贈られた本を開かなければ、こうはならなかったかもしれない。いや、彼女があの本と出会わせてくれたから母の教えを踏み外さずに済んだのだ。

図書館を出ると雨が降っていた。街路樹の下で頭巾姿の老女がしゃがみこんでいる。様子がおかしく、豊子は傘を差して駆け寄った。痩せた老女は苦しげに顔を上げ、すぐそこの裏通りに住んでいるので連れていってほしいと訴える。豊子は勉強道具の入った風呂敷包みをひじにかけて持ち直すと、老女をゆっくり立ち上がらせ、その背に手を添えて歩き出した。

裏通りは狭く薄暗く、すすけた集合住宅が並んでいた。居酒屋の前では老人が眠りこけ、伸びた下着を窓に吊るした部屋からは大声が聞こえてくる。故郷の裏長屋を懐かしく思い出した豊子は、やはりリヒャルトの妻には向いていないと自覚した。

豊子の腕を支えに三階建の石階段をようやく上りきった老婆は、また胸を押さえてしゃがみこむ。豊子が介抱していると、背後から「お袋そこにいたのか!」と声がした。振り返ると、鳥打帽とりうちぼうと青シャツを雨で濡らした二十代半ばの男性が階段を上ってきた。

老婆の息子は、中産階級の服を着た東洋人を怪訝けげんそうに見る。豊子が「お医者様を」と言うと彼は慌てて母親を支え、目の前の剥げたドアを開ける。豊子は老女が落とした頭巾を拾い、後に続いた。

息子は固そうな寝床に母親を横たえるとランプを灯す。天井が低く殺風景な部屋は六月なのに寒々しい。息子はテーブルに置いた薬缶やかんとコップを取り、水を注いで老女に飲ませる。顔に脂汗をにじませる老女はほどなく寝息を立て始めた。

息子は鳥打帽を脱ぎ、金色の髪を掻き上げると豊子に礼を言った。エリクと名乗った彼は、「電灯もないし薬も買えないんです」と肩を落とした。

「明日は親父の埋葬をしなきゃいけないんですが、パンすら買えない有様で。親戚に前借りを頼んだけどダメでした。お袋も誰かのお慈悲にすがろうと出かけたんでしょう。雨は体に悪いから家にいろって言ったのに」

豊子も父の死後、こういう生活をした。学問という「金にならない宝」しか持っていなかった母は、庄屋の妾になるか夫の遺した書物を換金するかを迫られた。だがどちらも受け入れず、豊子と薄粥うすがゆをすすり、娘にひたすら学問を積ませたのだ。

豊子は「一時しのぎにしかなりませんが」と持ち合わせの銀貨二枚をエリクに渡した。エリクは驚いて目を潤ませ、豊子の手を取ると何度も接吻せっぷんをした。動揺した豊子は「お母さまをお大事に」とだけ言い残して部屋を去った。

小走りに階段を降りて裏通りを出ると雨が強くなってきた。行きかう人々は急ぎ足になった。だが豊子の足どりはぼんやりとしていた。リヒャルトと出かけた結婚祝賀会でも、豊子は紳士たちから手の甲への接吻を受けた。長手袋をはめていたからかもしれないが、これほどいつまでも感触が残ったりはしなかった。

その後も大学の行き帰りに、裏通りをそれとなくうかがった。だが老女の様子を気にしていたはずが、いつのまにかエリクの姿を探している自分に気づき、赤面してその場を離れるのだった。

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子
河出書房新社
2021-11-02

この連載について

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ“正しい物語”である」と。 そんな神の支配する『竹取物語』の世界に生きる内気な姫さよは、帝の后選びの場で勝気な姫ごうに出会う。自由を求め物語の神に反旗を翻した二人は、『源氏物語』から『平家...もっと読む

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