この国では女子に生まれただけで人生が決まってしまう―『舞姫』1

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ正しい物語である」と。そんな神の支配する世界に生きる内気な姫さよが次に飛ばされた物語の世界は、なんと『舞姫』。「おなごにも生きる道を」と、女性初のドイツ留学を叶えるが、その道はやはり平坦ではなかった。はたして女性にキャリアは開けるのか。河出書房新社から好評発売中、雀野日名子さんの痛快エンタメ小説をお届け。(提供元:河出書房新社)

〖姫君、海を渡る〗


蒸気船のデッキで辞書を読む細田豊子ほそだとよこは、カモメが戯れる声に顔を上げると、胸いっぱいに潮風を吸いこんだ。八月に横浜を出港して一ヶ月半。明日にはヨーロッパの地が見える。そして十月からはベルリンでの留学生活が始まるのだ。

下級通詞つうじの家に生まれた豊子は十歳で父を亡くした。父が遺したものは膨大な書物だけだったが、豊子には英語とドイツ語とフランス語の知識を伝えていった。それから八年。新政府が欧州派遣団に同行する官費留学生を募ると、母は豊子を応募させた。

「この国ではおなごに生まれた時点で生き方が決まってしまうのです。おまえをこの国から出してやりたい。母のような生き方はしてほしくありませぬ」

下級藩士の家に生まれた母は学問を深く愛したが、それを立身出世の武器にできるのは男性だけだった。それでも学問を信じる母は、自分が断念した道を一人娘に進ませた。だが当然のことながら派遣団への応募は門前払いされた。参加できるのは原則的に良家の男子なのだ。例外的に女子を参加させる場合は、婦女子教育に力を入れるアメリカにというのが新政府の方針だった。

すると豊子の母は夫の遺品の刀を携え、娘を連れて文部省の前に座りこみ、選考試験を受けさせねばこの場で娘と自害すると主張した。女性の生き方に進歩的な考え方を持つ福沢諭吉が手を差し伸べた。文部卿を説得して豊子に試験を受けさせたところ、ずば抜けて良い成績を出した。在プロイセン公使の知るところとなり、是非ともベルリンに来させよとのお達しが出たとなると、派遣団の名簿に加えないわけにもいかなかった。

出発の日、豊子の母は見送りせずにふみを渡した。今後の心得をしたためたものだった。

「官費で学ぶことを日本のおなごに還元しなさい。この国のおなごに道を開きなさい」

豊子の目標は、貧しい子が素質を伸ばせる女学校を設立することだ。蘭方らんぽう医学は過去のものとなり、新政府は男子医学生をドイツで学ばせている。だが女医の育成は進んでいない。少なからぬ女性が乳房や腰巻きの内側を病みながらも、羞恥心や偏見を怖れて受診せずに命を落とすのだ。女子に医学留学が認められなくても、ドイツ語の医学書を学ぶ権利まで奪われる理由はない。

芸術に興味を持つ女子の手助けもしたい。音楽の本場であるウィーンやベルリン、美術の中心地であるパリに女子が官費留学できるのはまだ先の話だろうが、現地の教師を招致して日本でも西洋芸術を学べる環境を整えたい。

異国語を理解できるようになりたいと漠然とした憧れを持つ女子も大歓迎だ。異国の書を訳者を介さずに読めるようになり、異人の考えを通詞なしで理解できるようになると新しい世界が広がる。その喜びをひろめてくれる人材も育成したい。

ドンッと背中をぶつけられた拍子に、豊子は辞書を落とした。拾おうとすると革靴に手を踏みつけられた。「失敬」と薄笑いして去っていくのは同じ派遣団の森倫一郎りんいちろうたちだ。豊子は血のにじんだ手をハンカチで押さえると辞書のほこりを払った。

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子
河出書房新社
2021-11-02

この連載について

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ“正しい物語”である」と。 そんな神の支配する『竹取物語』の世界に生きる内気な姫さよは、帝の后選びの場で勝気な姫ごうに出会う。自由を求め物語の神に反旗を翻した二人は、『源氏物語』から『平家...もっと読む

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