赤穂浪士討ち入り!」なんてなかった―『仮名手本忠臣蔵』1

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ正しい物語である」と。そんな神の支配する世界に生きる内気な姫さよと、勝気な姫ごうは今度は『仮名手本忠臣蔵』の世界にいた。この世界では討ち入りは行われなかったことになっていたが、そこには平穏な世の中は待ち受けてはいなかった。女たちの「討ち入り」がいま始まる!河出書房新社から好評発売中、雀野日名子さんの痛快エンタメ小説をお届け。(提供元:河出書房新社)

可留かるかる


浅野内匠頭たくみのかみの未亡人である瑤泉院ようぜんいんは、淹れたてのお茶を飲むとほっと息をついた。

「討ち入りが計画倒れに終わって良かったのです。実行に移されていれば、さらなる悲しみが生じていました。男児は連座で刑に処され、残されたおなごも自害していたでしょう」

吉良きら邸への討ち入りを決意した四十七人の浪士は、江戸で秘密裏に準備を進めていた一年半のあいだに相次いで亡くなった。赤穂あこうで生まれ育った者は江戸の水で腹をやられ、高齢者や体の弱い者は江戸での流行病はやりやまいや栄養失調に負けたというのが、医者の説明だった。

だが彼らが討ち入りを決意していたことは世間の知るところとなり、腑抜け呼ばわりされずに済んだ。しかも仇討あだうちは噂にとどまることになったため公儀のおとがめも免れた。浪士たちは無念だっただろうがこれでよかったのだと瑤泉院は言う。

「殿にはあれほど、何を言われてもこらえねばなりませんと申しあげておりましたのに」

内匠頭は以前から吉良上野介こうずけのすけに侮辱されてきた。江戸城内の刃傷沙汰にんじょうざたでは吉良にも非があり喧嘩両成敗とされるべきなのだが、内匠頭だけが即日切腹でお家お取り潰しになった。一方の吉良は将軍と懇意なこともあって口頭注意にとどまり、今は隠居生活を満喫している。

内蔵助くらのすけをはじめとする家老衆は藩士やその家族、領民が路頭に迷わずにすむように、粛々と残務処理を進めた。血気はやって仇討ちを再優先していたらどうなっていたことかと瑤泉院は言う。

「ところで竹月院。内蔵助どのの三回忌を終えたら還俗げんぞくし、再嫁してはどうです。そなたは世間の目を欺くための道具にされただけですし、年相応の相手と好きおうて結ばれなされ」

「そういうわけには……浅野家はお取り潰しのままで、再興してはりませんし」

竹月院は内蔵助の後妻だ。夫が急死した後、髪を切って可留という俗名を捨てた。年はまだ十八である。

「気にしなくてもよいのです。もう少し待てば、キヨが再興の道をつけてくれます」

キヨは浅野家にいた若い女中だ。お家お取り潰しの後、大名の乳母宅に奉公にあがったのが縁で、次期将軍と噂される子息の寵愛を得ることになった。将軍就任と嫡男出産が実現したら浅野家再興を願い出るそうだが、富くじをあてにするようなものだ。

「とにかく好きに生きなさい。大石どのの菩提ぼだいは、りく殿に弔ってもらえばよいのです」

りくは内蔵助の前妻だ。四十七浪士の多くは、妻子が巻き添えを食らわないように形式的に離縁した。内蔵助も「若い妾ができた」と言って身重の妻を子どもたちとともに実家に帰した。そうして内蔵助のもとに連れてこられたのが、京の筆問屋に奉公していた可留だったのだ。

だが親子ほども年が離れた内蔵助とは夫婦の感情など湧かず、可留は前妻やその子らの生活の匂いが残る屋敷で過ごしながら、戻りたいという感情に駆られていた。奉公先でも故郷でもなく、ともかく自分の戻るべきところに戻りたい。それがどこかは、きっとあの月だけが知っている。そんな思いで空を仰いだ夜は数えきれない。

「うちは再嫁は考えてへんのです。今みたいに暮らしていけたらじゅうぶんどす」

可留は現在、古い蔵を改築して住まいにしている。朝は畑の世話に汗を流し、昼は裁縫指南をし、夜は仮名文字の草子そうし──挿絵がふんだんに盛りこまれたやさしい読みもの──を楽しむ。月明かりのもとで物語に浸っていると、不思議と心が落ち着くのだ。

「それに瑤泉院さまも、こうして京を訪ねてくれはりますし、不服はあらしまへん」

「そなたのことは年の離れた妹だと思っています。それに軽が、竹月院のところに遊びに行きたいと駄々をこねるのですよ」

瑤泉院は板間を見やる。寝転がって手鏡を眺めているのは、子のない瑤泉院と内匠頭の養女の軽で、竹月院と一歳違いだ。先々は婿を取って家督を継がせるつもりだった。

軽の胸には原因の分からないあざが無数にある。祈祷師は前世で矢を浴びたのだと言う。瑤泉院が軽を京に連れてくるのは、上方かみがたの名医に診させるためでもあるのだ。竹月院の首まわりにも生まれつきのあざがある。斬首されたような赤あざだ。

「竹月院、あとで軽に町見物をさせてやっておくれ。軽はそなたと出かけることを何よりも楽しみにしているのです」

軽は寝転がったまま、ぷうと屁を放った。


「姉さま、どう? このかんざしは似合うておる?」

小間物屋で、軽はあざみの花かんざしを髪に添えてみせる。手代てだいが売れ筋の蓮花れんげを勧めると、軽は「私が付けるものを決めるのは私じゃ」と一蹴する。竹月院は両方の顔を潰さないよう、値段もほどほどの柘榴ざくろのかんざしを選ぶ。

戦の世が終わって百年になる。政治の中心は京から江戸へと移ったが、京は大坂とともに上方と呼ばれ、文化や流行の発信地として存在感を示している。

買ったばかりのかんざしをさした軽は「次はどこに行く?」と竹月院と手を繋ぐ。

「草紙屋に行きましょ。今日は新作が入荷される日やさかい」

井原西鶴や八文字屋の新作を追いかけるのも楽しみだが、無名作家の掘り出しものを探すのはそれ以上に楽しい。

平安の世では物語の多くは女たちの手でつづられていた。だが戦の世に入ると男たちが筆や紙を独占して合戦の様子や武将の生涯を記録し、「物語」は不要なものとされた。そんな戦の世が終わって泰平の世が訪れると「物語」は息を吹き返した。人々は手軽に楽しめる物語を求め、だれかれなく物語を書くようになり、上方には書店や版元が続々と誕生している。

軽のお気に入りは『たけとり血風録』という作者不詳の草双紙だ。『竹取物語』を題材にしたもので、帝の兵隊が月の使者と戦う場面に力を入れている。「帝の『み』の字は皆殺しの『み』」と鼻歌まじりに凄まじい挿絵を眺めてばかりいるが、読む習慣を付けてくれるのならそれでいいと瑤泉院は許している。

草紙屋の暖簾のれんをくぐると、なじみの老店主が「おこしやす」と顔を上げた。

「今日は大坂から面白い本が入りましたんや。平家物語の珍説本です」

老店主が棚から取り出したのは『をんな義経』という作者不詳の草双紙だった。

「源義経が女やったという話です。五百年も前から瞽女ごぜが語り継いできた物語やとか」

平家物語には読みものと語りものがある。読みものは男の手で書かれた軍記物で、語りものは瞽女や琵琶法師が語り継いできたものだ。紙に残された物語は消失することも多いが、口頭で受け継がれる物語は形を変えながらも生き残る。

「お安うしときます。静御前が太刀の舞で武者千人をなで斬りにしたとか、それを真似たのが出雲阿国いずものおくにやとか、書きたい放題の内容ですわ」

今は二束三文としか扱われない作品でも、何十年か後には名作に化けるかもしれない。そうした期待と予感を胸に、竹月院は草紙屋に足を運ぶのだ。

店の表が騒がしくなる。供を従えたお大尽の駕籠かごが通りすぎていく。老店主は「吉良はんが上洛してきましたんや。お茶会がありますさかい」と本の埃をはたいた。

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子
河出書房新社
2021-11-02

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ“正しい物語”である」と。 そんな神の支配する『竹取物語』の世界に生きる内気な姫さよは、帝の后選びの場で勝気な姫ごうに出会う。自由を求め物語の神に反旗を翻した二人は、『源氏物語』から『平家...もっと読む

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