家事をやめる

私が老後不安から完全に解放されたわけ

掃除して洗濯して料理して皿洗って……生活に面倒な家事は付き物。のはずが、「ノー家事」生活を謳歌する人がいます。連載「買わない生活」が話題の稲垣えみ子さんです。あるきっかけから人生で初めて、面倒な家事を一切しなくとも清潔で快適、この上なく気持ちの良い暮らしを手に入れ、今や毎日が楽しくて仕方ないとか。圧倒的ローコスト、ローエネルギー、ローウェイストで幸福度が確実にアップする「ノー家事」生活の全貌とは。(提供元:マガジンハウス)

この夏に履きまくったビーサンを重曹と歯ブラシでゴシゴシ洗って干す至福の時!

前回、老いてアルツハイマーになっても元気に暮らしを全うしたという、驚くべきアメリカの修道女たちのことをご紹介した。それは、彼女たちが「集団の中で、自分のできることはしっかりと行いながら、環境の変化の少ない暮らしを何十年も続けている」からではないかという専門家の指摘についてもご紹介した。

つまりは、慣れ親しんだシンプルな暮らしを延々と続けることで、彼女たちは人生の最後の最後まで「自分にできること」を手にすることができたのである。そんなふうに、老いたとてちゃんと「自分にできること」さえあれば、どれほど衰えても人はちゃんと前を向いて生きることができるのだ。

そう思うと、確かな希望が湧いてくる。

だが。このやたらと変化の激しい社会の中で、際限のない豊かさを求めて暮らしを拡大し続けている我らの現実は、そんなシンプルな暮らしからいかにかけ離れてしまっていることか! 老いた我が母が、便利社会の中で「できること」をどんどん奪われてしまった経緯は以前に書いたとおりだ(「完璧に家事をこなす母が直面した「老い」)。

これは、誰もが真剣に考えるべきことだと私は思う。

使わなければ体も頭も衰える  

厚生労働省は、2025年には65歳以上の高齢者の5人に1人が認知症になるとの推計を紹介している。誰しも他人事ではないのだ。そしてもちろん、認知症にならずとも、老いて体も頭も衰えていくことからはこの世の誰も逃れられない。同省の統計によれば、長生きになる人が増えるにつれ健康寿命と平均寿命の差も拡大している。男性は9年、女性は12年を「不健康な状態」で暮らさねばならないのが現実なのだ。

つまり、我らはこの「長く不自由な老後」をどう生き抜くのかを真剣に考えねばならない時代を生きている。このままぼーっと「豊かな」世の中に身を任せていては危険なのである。

ところで、我らの豊かさのワナはそれだけではなかった。修道女の研究について教えてくださった近藤誠さんは、こんな恐ろしい指摘もしている。

使わないものは衰える。体も、頭も。

で、現代の我々の暮らしはどうか。便利を追求した結果、それまで人間がやってきたことをどんどん機械に任せるようになった。手で掃除しなくなったし、歩くこともしなくなったし、漢字も書かなくなった。つまりは体も頭も使わなくなった。

そして、使わないものは衰える。

認知症患者が増えているのは、こうした環境と無縁ではないのではないか—。

便利社会が認知症を増やす?

いやいや、私は震撼いたしました。だって、だとすると、ですよ。  
今の我々の社会とは一体何なのか。どんどん「便利」を追求し続ける社会とは、実は認知症患者をせっせと増やし続ける社会ってこと……? 我らはそのような社会の中で、うっかり自分で自分を衰えさせているのか? 誰もが認知症になることに怯えまくり、老後不安を叫びながら、実は自らせっせと「老い」と「病」を作り出しているってことなのか?

そういう目で世間を見てみると、全てのことがこれまでとはガラリと違って見えてくるのだった。

「便利!」「便利!」とまくしたてるコマーシャルが、まるで私を陥れる穴のように見えてくる。「ワンランク上の暮らし」を提案する雑誌も、もはや何の魅力もなくなってしまった。ワンランク上なんて目指している場合じゃないのだ。だってこれから確実に老いていく私に切実に必要なのは、「変化の少ない暮らし」なのである。

そうなのだ。老いていく私は、どんどん上を向いて突き進む世の中にうかうかと同調してはいけない。それは自ら墓穴を掘る行為である。命取りである。変化などしてはいけない。便利に目を奪われてはいけない。現状を死守せねばならない……いや、それでは全く不十分だ。だってすでに私は、これまで喜んで手に入れてきた多すぎるもの、多すぎる欲たちを抱えているではないか。

そう、今の私が目指すべきは「修道女のような暮らし」なのだ。

ゼータク三昧から一気に価値の大転換

想像してみる。修道女のような、何もないシンプルな小さい清潔な部屋で、毎日同じシンプルなものを作って食べ、毎日同じシンプルなものを繰り返し着て暮らす。便利なものに頼りすぎず、自分の手や頭を使って家事をする。それは果たして敗北だろうか。つまらない生活だろうか。無理をせず、背伸びをせず、自分の手の届く範囲で、自分の身の丈にあった暮らしをする。贅沢や便利に慣れきってしまった私は、本当に「それで十分」と心から思うことができるのだろうか。

で、早速やってみたわけです。

……と簡単に書いたが、もちろんそれほど単純にコトが運んだわけではない。何しろ価値観の大転換である。ずっと上を向いてやってきたのに、突然の方向転換である。人は誰しも、一旦得たものを手放すのは全く簡単なことではない。だが幸か不幸か種々の偶然も重なりまして、詳細省くが、とにかく私はゼータク三昧の暮らしから、モノを捨て家を捨て給料を捨て、一気に修道女のごとき小さな生活に突入したのである。

そうしたら。

自分でも全く信じられないことが起きた。それは「つまらない生活」どころかサイコーの生活であった。いや「最高」という言葉では言い足りないかもしれぬ。それは、そんな世界がこの世にあったのかと思うような、50年生きてきて想像すらしなかった圧倒的な生活であった。

何しろ、瞬時にして理想の衣食住が全て手に入ったのだ。

手放して手にした最高の衣食住 

まずは美しい家。モノを減らし、家を小さくしたら、それだけで家の中は9割がたいつも片付いているのである。そうなれば、大の掃除嫌いだった私も人生で初めて、呼吸でもするように無理なく日々家の中をちゃっちゃと綺麗にできるようになった。これといった努力などせずとも365日24時間、美しく整頓された部屋で生活するという人生初の事態が発生したのである

それから、心から美味しいと思える食事。冷蔵庫を手放して、同じく冷蔵庫のなかった江戸時代のような「メシ・汁・漬物」という食事を毎日食べるようになったら、飽きるどころか、そのご飯が楽しみすぎてハンパな外食などしたくない。なるほど私が一番好きな食べ物はコレだったのだと、これも50年生きてきて初めて気づいた。つまりは、「今日のご飯何にしよう」などと一切考えることなく毎日10分の調理時間で毎食サイコーなものを食べる生活を手に入れたのである。

そして、服も大胆に整理して最高に似合う服だけを残した結果、日々最高に似合う服しか着ていない。服選びの時間もかからないし、服を置くスペースもいらない。いいことしかない。

つまりはですね、これがどういうことかと言いますと、理想の暮らしとは、溢れるほど多くのものを持っている暮らしではなく、「自分に合ったものを持っている暮らし」のことだったのだ!

で、自分に合ったものなど実はほんのちょっぴりで、さらに自分に本当に合ったものとなればさらに本当にちょっぴりなのであった。でも私は世に溢れるモノたちに目を奪われて、自分に本当に合ったものが何かなんて考えようともしてこなかったのである。

「満たされている」幸福を初めて知る

どうですか? 何か強がっているように聞こえますかね? 信じられない? それも当然だ。何しろ私が一番信じられない。だって半世紀にわたり、まさに理想の衣食住を手に入れたいがために必死に勉強していい学校を出ていい会社に入り高い給料を得てきた。これを維持するにはどんな理不尽な上司の要求や叱責や長時間労働の要求にも耐えねばならぬと思ってきた。それがですよ、そのほぼ全てを手放した先に、あっさりと、全てが手に入ってしまったのだ。嬉しいというよりも、何かに騙されたような、空いた口がふさがらないような、何とも言えない心境にもなってしまう。

でもこの「新しい生活」を前にしては、そんなモヤモヤも瞬時に吹き飛んだのであった。

何しろ、私が手に入れたのは「最高の衣食住」だけじゃなかった。それ以上に大きなもの、これまで手に入るとすら考えたこともなかったものを手に入れたのだ。それは「これで十分」という気持ちである。もうこれ以上、欲しいものなどない、私は満たされているという感覚である。

だって、日々美味しいものを食べ、清潔な部屋で、こざっぱりしたものを食べて暮らすコトができたなら、これ以上何がいるだろう? これまで一体何をあんなに欲しがっていたのかもはや思い出すこともできない。欲しいものもなく、誰かを羨むこともない。それがどれほど幸せな状態であるかを、私は生まれて初めて知ったのである。

人生初のご近所づきあい

さらに、我が世界は思わぬ方向に広がり始めた。

「これで十分」とわかれば、「あれもこれも」と焦っていた心がゆったりとしてくる。周りの人に目を向ける余裕ができる。私は人生で初めて「ご近所づきあい」をするようになった。といっても特別なことをしたわけではない。近所の店では元気に挨拶して世間話をし、公園で日向ぼこをしているお年寄りには「こんにちは」とニッコリ挨拶。たったそれっぽっちのことでも積み重ねとはスゴイもので、いつの間にか、切り花をもらったり、作りすぎたカレーや炊き込み御飯をいただいたり、そのお返しにと頂き物のおすそ分けなどするのが当たり前になった。

独身の私には一緒に暮らす家族はいないけれど、まるで「巨大家族」の中で暮らしているかのようだ。その安心感といったら!

こんなふうに人を助けたり、助けられたりして生きることはちっとも恥ずかしくないし、むしろそれそのものが楽しいのだった—。

つまりはですね、これをまとめますと、ふと気づけば、いまの私は「集団の中で、自分のできることはしっかりと行いながら、環境の変化の少ない暮らしを6年ほど続けている」のですよ!

そして、この状態が心から最高だと思っている。これ以上何を足したくもない。となれば、6年が10年になり、何十年にも積み重なっていくことは間違いない。

「修道女化」して得た安心

そう、ついに私は自ら「修道女化」することに完全に成功したのである。

で、確かにこんな単純で簡単で楽しい生活ならば、かなり年を取ってもいつまでもできそうな気がするのだ。

意味不明のボタンがたくさんついたややこしい道具など一切使わず、来る日も来る日も雑巾や箒や小さなコンロやタライという原始的な道具を使い、日々同じことをチャチャッとやるだけ。これならば多少ボケがきたとて身についた単純な記憶はそう簡単に失われるコトもないはずで、それなりに長いこと自立して暮らせるのではないか。

それに、体を動かし、五感を働かせていることそのものが、自分を生き生きとよみがえらせているのがわかる。そうなのだ。機械に頼らず手でやる家事は思いのほか楽しかった。雑巾で床を拭いたら真っ黒になり、それを冷たい水で石鹸の匂いに包まれながらじゃぶじゃぶ洗濯する。たちまち水が真っ黒になって、一方の雑巾が真っ白に……というのは、それだけでキャッキャと心が浮き立つような清々しい娯楽であった。家電に頼っていた頃は面倒な作業でしかなかった家事が、幼い子供の泥んこ遊びのようなものになってしまった。

家事が老後を守ってくれる

子供の時以来、ずっと忘れていた感覚が戻ってきている感じである。なるほど私は今、便利に奪われてしまった「自分」を日々取り戻しているのだ。老いの入り口に立っているはずが、日々若返っている気持ちすらする。

うん。そうだよ。これでいいんじゃないだろうか?  そしてこうなってみたらデスね、家事というものが、そうあの面倒でうっとおしくてカネも儲からずやってもやってもキリがなく、ああできることなら人生から消えてしまえと思っていた家事が、私の中で、全く別の様相を持って私の前に現れたのだ。

家事とは、今や私にとっては最高の「お守り」である。

仕事が全く上手くいかずとも、信頼していた人に裏切られても、ほんのちょっと体を動かすだけで、今日1日をすっきりと快適に、つまりは「幸せに」暮らすことができるのだ。この世はどうやったって思うにまかせぬことばかりだが、家事は決して私を裏切らない。

そうなのだ。私は日々自分の力で、何のお金もマシンも使わず、自分の暮らしをチャチャッと整えることができる。そして、それに十分満足できる自分がいる。つまりは満たされている。これといった才能がなくたって、他人に認めてもらえなくたって、私は生きているだけでちゃんと自分で自分を幸せにすることができるんである。さらに、そのことが自分を健康にしているのだ。となれば老後不安もなんのその。何しろ家事さえできればお金の不安も健康の不安もないのだ。家事は私の老後も守ってくれているのである。

さらに暮らしをシンプルに

もちろん、これから年をとれば、今できていたことができなくなっていくこともたくさんあるだろう。でも、その時はさらに暮らしをシンプルにすればいいのではないかと思っている。持ち物をさらに減らし、食事もさらに単純にし、もっと小さな部屋で暮らせば家事もさらに楽になる。近所の人たちとも、もっと助け合えば良い。そのようにして、どんどんどんどん自分を小さくして、その中で最後まで自分にできることを一生懸命やって、その果てに「自分を使い果たして死んでいく」(近藤誠さんの至言!)ことが、現在の私の目論見であり目標である。

……と、あれこれ書いてきたが、以上が、私がこの厳しい時代を生き抜かねばならない皆様に「ノー家事生活」(=修道女のごとき生活)を心から勧める理由である。ここに性別の差はない。シンプルに自立して生きることは、すなわち満たされて生きることであり、そうなれば他人と助け合って生きることができる。どんな人であれ、それさえできたなら、老いも災害も疫病もしなやかに乗り越えていくことができるのではないだろうか。

逆に言えば、このような境地に達することができなかった場合、男であれ女であれ、この不確実な厳しい「人生100年時代」をどう生き抜くことができるのだろうと訝しく思う今日この頃である。

この連載について

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家事をやめる

稲垣えみ子

我が人生から、家事が、消えた。50年近くずっと格闘してきた家事が、気づけば、消えていた。 それなのに、家の中は整っていて、気分は晴れやか。しかも圧倒的ローコスト、ローエネルギー、ローウェイストという夢のような事態。そんなノー家事生...もっと読む

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uovAwK18nYVdPHw #スマートニュース 4日前 replyretweetfavorite

satclove2 子どもが巣立ったら私もこうなりたい 5日前 replyretweetfavorite

anna_rouge ここまで徹底してはできないだろうが、方向性として目指していければいいかな。 5日前 replyretweetfavorite