男が忍んできたとき、女の夢は崩壊した―『源氏物語』2

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ正しい物語である」と。そんな神の支配する世界に生きる内気な姫さよと、勝気な姫ごうは『源氏物語』の世界へ送り込まれ、佐与と光子として生まれ変わる。佐与は自分の物語を自ら綴り、穏やかな愛に包まれることを夢見ていたが、そこにある男が近づいてくるのだった。河出書房新社から今秋発売予定、雀野日名子さんの痛快エンタメ小説を、いち早くお届け。

数日後、光子ひかるこ佐与さよが同居する私邸に、帝から十数巻の書が届けられた。

『和泉式部日記』『蜻蛉かげろう日記』『枕草子』──。これまで上巻しか手に入らなかったものや、筆写の完成が未定とされていたものばかりで、佐与は顔を紅潮させる。なかでも佐与の心を弾ませたのは『源氏物語』の新作だ。送られてきた写本には回し読みされた跡がある。宮中の女人にょにんたちをどれほど夢中にさせたかが分かり、佐与の心は早くも物語に奪われる。

「紫式部の書ではないか。あんな鼻持ちならないやつの書など読むな」

佐与の傍らから、光子が覗きこむ。

「鼻持ちならないかたなの?」

「舞楽の日に会ったではないか。藤原卿を笠に着た、義母上ははうえさまの教育係じゃ」

「あの方が? 式部としかおっしゃらなかったし、和歌がお上手とのことだから、和泉式部だとばかり思っておりました」

「和泉式部は、夫君と和泉国に行っておる。出雲式部やら伊豆式部やら、式部だらけじゃ」

「女人は、夫の赴任先や父方の出仕先で呼ばれますものね」

「我らも嫁いだら、佐与や光子という名は消えるのであろうな」

光子は佐与の隣に腰を下ろすと、書を手に取った。

「なにゆえ仮名おんなでで書かれた物語は、どれもこれも恋物語なのじゃ」

「私は恋物語も好きです。光子さまと違って、恋は、物語でしか得られぬ夢だもの」

「佐与には恋以外の夢はないのか」

「むろん、あるわ。物語作者になるの」

紫式部、和泉式部、清少納言、道綱母みちつなのはは。彼女たちのように女人の心をつづり、広く読んでもらうことができれば、どれほど素敵なことだろう。和歌、随筆、物語。様々な表現の形があるけれど、佐与がもっとも心惹かれるのは、別の人生を体験できる「物語」だ。

佐与が物語作者を夢見るようになったのは、幼い頃に出会った『竹取物語』の影響が大きい。作者不詳と言われ、内容は粗くて突拍子もないものだが、女人が書いた気がする。佐与や光子よりもずっと前に生まれた、別の人生を求めていた女人ではないかと。あの紫式部も『竹取物語』は物語の元祖だと言い、『源氏物語』の着想を得たのも石山寺で月を眺めていたときらしい。

ただ、『竹取物語』の最後はとても悲しい。月の姫君は罪人とされ、記憶を消されて去っていくのだ。作者が女人なら、どうして同じ女人である姫君をあのような結末に落としこんだのだろう。誰かが結末を変えてしまったのだろうか。それとも、結末だけは男が書いたのだろうか。

「佐与、嫁がされる前に物語を書け。嫁いでからでは作者の名が佐与ではなく、なにがしつまだの某の母になってしまうぞ。語り継がれる物語となっても、歴史に残るのはそなたの名ではなく、そなたを妻にした者の名じゃ。手柄の横取りじゃ」

「私は気にしませぬ。名前を残すために物語を書きたいわけではないもの」

「そなたが気にせぬとも、我が我慢ならぬのじゃ。早う書け」

「けれども筆が思うように進まないの。多くの書を読んできたけれど、男女の機微だけは、難しゅうてなりませぬ」

「女人は男女の恋しか書いてはならぬという、決まりでもあるのかえ?」

「紫式部の書くものにならうべしとの風潮があるように思います」

「女人は藤原が気に入るものを書けと言わんばかりではないか」

「藤原さまのお考えに沿わぬ随筆を書いた清少納言どのは、たしかに兄上をあやめられました」

「我は、藤原の目を見ると虫唾むしずが走る。ああいう目を持つ者と、いつか会った気がしてならぬ」

「私も、あの目には見覚えがあるの。舞楽の日にお顔を合わせたときには、怖気立おぞけだちました」

「佐与は、佐与だけの物語を作るのじゃ。藤原からは、我が護ってやる」

光子は手にしていた書を置くと、空をあおいだ。

「そろそろ日が暮れてきた。月が顔を出しておる」

佐与も光子の仰ぐ空を見上げた。

「私はいつぞや、月を仰いで物語を語った気がします」

「我にも不思議と、そういう記憶がある」

光子は自身の後ろ首の、あざのあるあたりを触った。


【物語を許さない者】


私邸が月明かりに包まれる頃、佐与は離れの部屋で燭台しょくだいを灯し、『源氏物語』の最新作「夕顔の巻」を読んでいた。光源氏の愛妾が別の愛妾に呪い殺されるという展開に、佐与は身震いする。女人の嫉妬はこれほど根深いのかと、同じ女人でありながら恐ろしくなる。

光子は『源氏物語』を嫌っている。ためしに読んだ「桐壺の巻」が原因なのだろう。あらすじはこうだ。身分のそれほど高くない更衣こういという女人が、帝の寵愛を得て皇子みこを授かる。しかし体の弱い更衣は亡くなり、更衣に似た面差しを持つ先帝の四の宮が、母后の後押しで入内じゅだいする。帝に見初められた彼女は藤壺と呼ばれ、寵愛を受ける。その後、更衣の遺した皇子「光」は、義母である藤壺と道ならぬ恋に陥っていく。皇子の名を女人にすれば光子だ。光子と帝の仲の良さに、下卑た噂を流す者たちもいる。「光子さまの母御は、どこぞの男の種を宿したまま入内したに違いない。帝も光子さまも、互いに血の繋がりがないことをご存じに違いない」と。

帝、亡き更衣、光子。この三人には三人だけにしか分からない物語がある。光子にとっては紫式部に、それをもてあそばれたことになる。佐与は、紫式部に奪われた光子の物語を取り戻したいと考えている。いつの日か、必ず。

「佐与さま、先ほど藤原式部丞しきぶのじょうさまと在原中将ありわらのちゅうじょうさまの、使いの者が参りまして」

几帳きちょうごしに女童めのわらわが呼びかける。式部丞は文章博士もんじょうはかせの子息で高い学識があり、在原中将は武勇に優れたうえに都一番の美男子だと聞く。帝になんらかの口利きを頼もうと、光子宛ての文を届けさせたのだろう。彼らに限らずよくあることだ。とはいえ光子は宮中行事に呼ばれていて、私邸に戻るのは七日後だ。佐与も招待されたけれど、風邪気味だったので辞退した。このようなときに光子さまへの頼みごとを預かるとは。宮中に使いをやるべきかしら、預かっておくべきかしら。

「佐与さま宛てです。お返事がほしいとのことでした」

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子
河出書房新社
2021-11-02

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ“正しい物語”である」と。 そんな神の支配する『竹取物語』の世界に生きる内気な姫さよは、帝の后選びの場で勝気な姫ごうに出会う。自由を求め物語の神に反旗を翻した二人は、『源氏物語』から『平家...もっと読む

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