【姫君その四 裕福な姫君のある日】
商団が持参した深紅の琴に、簾の内側から「おお」と声が上がった。
「天竺の修行者が、唐の寺院に奉納したものです。天竺の火山に生える、決して炎に焼かれぬ菩提樹で作られた琴でございます。
「お父上、私はあれがほしい!」
「値はいかほどじゃ」
女商人は簾に向けて二本の指を示してみせる。控えの女房たちは眉間にしわを寄せ、扇で口元を隠して囁きあうが、右大臣は意にも介さず、執事に
「姫君は運がよろしゅうございます。こたびの船では稀少な品々が入りました。
「お父上、絹や香油もほしい!」
「よかろう、よかろう。して、値はいかほどじゃ」
女商人は
「琴と合わせて五つか?」
「絹だけのお値にございます」
女房たちの眉間のしわが、さらに深まる。だが右大臣は満足だった。一人娘への投資は自身への投資なのだ。
右大臣は不幸にして八人の息子を
「ところで近々、弘法大師が愛用した筆が届きます。姫君の和歌が一段と映えるかと思いますが、いかがいたしましょうか」
「お父上、筆もほしい!」
右大臣は、追加の金子を用意させた。
部屋に運びこまれた琴を、姫君は楽しげに
急ごしらえで絃を張ったかのように音が硬いが、馴らせばよい響きを出すだろう。鳳凰の
お父上はこの次は、后の座を用意してくださるそうだ。姫君自身は后の座よりも、宮中でしか食べられない珍しい菓子のほうに興味があるのだけれど、お父上もお母上も后の座を望めと言っている。ただし后の座を手に入れるには金子ではなく、姫君の琴の演奏と和歌が必要なのだと。
親が勧めるものに間違いがないことを姫君は知っている。初潮の祝いで与えられた衣だって、女房たちが推したものよりお父上とお母上に選んでもらった衣のほうが、貴公子たちの評判が良かった。もっともお母上には常々、「歌を交わしてよい相手は帝だけですよ」と言われているので、貴公子たちから贈られた和歌には返事をしたことがない。
早く帝にこの琴の由来を話したい。帝のお顔も見てみたい。噂では帝は「たとえようもないお顔立ち」とのこと。ああ、早くお目にかかりたい。
飽くことなく琴を眺めていた姫君に、女房が「そろそろご用意を」と告げる。今日から屋敷の者たちを連れて、五日間の
甘物のことで頭がいっぱいになってしまった姫君は、琴を出しっぱなしにしたまま、身支度の間へと向かった。
五日間の愛宕山詣でで甘物を堪能し、屋敷に戻ってきた姫君は、琴の異変に気がついた。
鳳凰の蒔絵も紫陽花色の螺鈿も、ところどころ削り取られている。鼠に
「いかがなされましたか?」
どうしよう。
愛宕山詣でのあいだ留守を預からせていた二人の使用人に話を聞こうと、呼びにやらせた。だがどこにもいなかった。やがて縁の下から、血のついた衣が見つかった。きっと鼠を追い払おうとして噛まれ、そのまま屋敷から逃げてしまったのだろう。
いずれにしても、琴を片付けさせなかった自分が悪いのだ。お父上やお母上には内緒にしておかなくては。翌日、姫君はひそかに女商人を呼び、人払いをした。
「あの琴を、もうひとつほしい。屋敷の誰にも知られぬよう、持ってまいれ」
姫君は螺鈿の箱を開けてみせる。珊瑚や
「一年ばかりお待ちいただければ」
「一年はならぬ。帝の定めた期日は、あとふた月じゃ」
姫君は別の箱を開けてみせる。
「それではただちに、急ぎの使いを」
女商人は、手下の女に螺鈿の箱を包ませると退出した。
姫君は琴が届くのを今日か明日かと待ちわびた。だが知らせが届くことはなかった。
物語の神は、姫君その一からその四までが、設定どおりに動いているのを見て満足した。さて、残るはひとりである。「女たちへの戒め」として設定した姫君だ。女たちはこの姫君の末路を見て
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