感動的なシーンの数々で問題は消せない
オリンピックが終わった。当然だが、終わったからといって、始まる前から積み上げられた問題点が消えて無くなるわけではない。賄賂などの不透明な招致プロセス、開催費用の高騰化、新型コロナ感染を防ぐとしていた「バブル」が崩壊し選手や関係者から多くの感染者が出た事実、何が何でも開催を優先する政治体制が作り上げた「楽観バイアス」による感染拡大など、論点は残るというか、増える一方だ。脳裏に焼きついている感動的なシーンの数々で、残されている問題は消せない。選手が、ではなく、政治が選手を活用して消そうとしてくるが、消してはいけない。「そんなことやっている場合ではないのにやってしまった」という事実はずっと重い。終わっても重い。終わってからが重い。オリンピックはやるべきではなかった。
表敬訪問など不要
名古屋市の河村たかし市長が、表敬訪問をした女子ソフトボール選手の金メダルを噛んだ。コツンと音がなるほど噛み、なおかつ、メダルをぶら下げる紐の部分までしっかり噛んでいる。河村の謝罪はこうだ。「最大の愛情表現だった。金メダル獲得は、あこがれだった。迷惑をかけているのであれば、ごめんなさい」。それぞれ、どうかしている。愛情表現とは、河村の、何に対する愛情表現なのか。選手なのか、金メダルなのか。どちらであっても、河村が愛情を表現する対象ではない。金メダルを獲得するのが憧れだったことと、人様の金メダルを噛む行為がどうやって繋がるのか。憧れと噛むは、彼の頭の中でどう結びつくのか。どんな理由でも理解しがたいが、みんな理解してくれるはずと思っていたのが彼のようで、それは、「迷惑をかけているのであれば」と、条件付きで謝ったことからも見えてくる。
「表敬訪問」とは「敬意を表すために訪問すること」を意味する。噛んだ日、河村市長は選手に対して、感謝状を送っている。その文面には「多くの名古屋市民に希望と誇りを与え、スポーツを通じて、イメージの向上に寄与されました。ここに感謝の意を表します」と書かれている。敬意を表するために訪問するならば河村のほうである。以前も触れたが、オリンピック憲章には、「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書かれている。だからこそ、国や自治体が好成績を収めた選手を自分たちの利点となるように活用する動きには、すべて首を傾げなければいけない。今件に限らず、選手からの意向がないのであれば、表敬訪問など不要だ。