一故人

小林亜星—明るいのにどこか切ないメロディの謎

テレビCMを中心に作曲家として多くのヒットを飛ばし、そこにとどまらない幅広い活躍をした小林亜星。その生涯をCMディレクターの杉山登志との関わりなども交えながら綴ります。

“宿敵”の死とドラマ初出演

1973年12月、CMディレクターの杉山登志(当時37歳)が東京・赤坂の高級マンションの自室でみずから命を絶った。杉山は資生堂のCMを中心に手がけ、国内外で高く評価された気鋭の演出家である。亡くなったとき、部屋の机の上には1枚の原稿用紙が置かれていた。そこには《リッチでないのに/リッチな世界などわかりません/ハッピーでないのに/ハッピーな世界などえがけません/「夢」がないのに/「夢」をうることなどは……とても/嘘をついてもばれるものです》と、まるで広告コピーのような一文が書かれており、関係者にも世間にも遺書と受けとめられた。

マンションのちょうど真上の階には、作曲家の小林亜星(2021年5月30日没、88歳)が仕事場を構えていた。その日、外出先より帰った亜星は、管理人から「自殺者が出た」と聞いた途端、杉山だとなぜか直感したという。CM音楽のヒットメーカーだった亜星は、杉山ともたびたび仕事をしていた。

後年、その業績と横顔を振り返る追悼本が刊行された。生前の杉山を知る人たちが文章や談話を寄せるなか、一人だけ、亜星が辛辣に故人を評しているのが目を引く。彼はそこで、杉山の初期の作品にはかなりいいものがあったが、後半の作品は認めないと断言し、性格的にも相手の「いいかっこし」なところが合わなかったと明かしている。たまたまハワイへ行く飛行機で一緒になったときには、杉山が客室乗務員に「マルティニ、うんとドライにして」と頼むと、亜星も負けじと「日本酒ある?」と大人げなく対抗したこともあったという。亜星には、杉山が何かにつけて格好をつけたがるのは、精神的な貧しさの裏返しに思われたらしい。追悼集ではこう語っている。

《遺書にあった「リッチ」という言葉も、精神的なものを言おうとしていたんでしょう。経済的には恵まれていないはずがないのだし、brain,heart,bodyのうちで言うと、heartが貧しかったんじゃないかな。/感覚は優れていたし、スタミナもあったようだし、CMがアメリカのイミテーションで、外国雑誌の一ページを絵にしていればよかった時代のスターだった。そういった物の取り入れ方は早かった。だから、一緒に仕事をするのは、ちょっとしんどかった。(中略)とにかくphylosophyがなかった。教養がなかったと思う。若くて、歌がうまいだけで芸能界に入って、知らないうちにスターになって、気がついてみたら歌うたうことと芸能界しか知らない歌い手がいるけれど、あれと同じですよ。杉山登志はそういう悲劇の人ですよ》(馬場啓一・石岡瑛子編『CMにチャンネルをあわせた日』

それでも亜星にとっても杉山の死が衝撃であったことは間違いない。別のところでは、《彼の死は、日本の消費文化のひとつのいきづまりを暗示しているのではないか》と書き(『小林亜星の ああせい こうせい』)、杉山と同じくCMの仕事を無我夢中で続けてきた自身の生き方を否応なしに省みざるをなかった。ちょうど40代に入り、あとから若い才能も次々と出てきて、いずれ仕事が来なくなるとの危機感から、ほかにも色々とやってみようかと考え始めていたという。そこへ思わぬところから仕事が舞い込んだ。

杉山の亡くなった直後、亜星は自身のACC音楽賞の受賞祝いを兼ねた忘年会で出席者たちを驚かせる。それというのも、以前までの芸術家然とした長髪が坊主頭に変わっていたからだ。亜星が「今度テレビドラマに出ることになったんでね」と言ってスチール写真を見せると、みんな笑い転げた。そこには彼が坊主頭に印半纏を羽織って腕を組んだ姿で写っていた。彼をCMの世界に引き込んだ張本人であるレナウンの元宣伝部長・今井和也に言わせると、《小林亜星はインテリである。音楽はもちろんだが、文学を語っても人生を語っても人に耳を傾けさせる内容がある。猥談の達人だがサラッとした知的猥談である》『テレビCMの青春時代』)。それだけに写真の亜星の姿は、およそ本人のイメージからはかけ離れたものに旧知の人たちには思われたのである。

だが、いざドラマが翌1974年1月に始まると、亜星に対する世間のイメージは、劇中で扮した石材店を営む坊主頭の頑固親父で定着する。いまとなっては長髪姿の彼を想像するほうが難しい。向田邦子脚本・久世光彦プロデュースによるこのドラマこそ、いまなおホームドラマの傑作として高く評価される『寺内貫太郎一家』であった。以来、彼は作曲家とあわせて、俳優あるいは歌手など、マルチタレントともいうべき活躍を見せる。ここで改めて彼が作曲家として成功するまでの経歴を振り返ってみたい。

いやいやながら医学部に入るも…

小林亜星は1932年8月、東京に生まれた。亜星は本名である。もともと舞台女優だった母親が新築地劇場にいたころ、演出家の村山知義の息子が亜土という名前だと知って、それを真似して命名したらしい。ただ、戦時中は「アメリカの亜に星条旗の星だ。スパイの子」とずいぶんいじめられたという。

母のいた新築地劇場は、新劇を代表する劇団・築地小劇場が昭和初期に、劇団内のイデオロギー対立から脱退したメンバーによって結成された。マルクス主義の影響が色濃く、亜星の母も終生、左翼思想を貫いたという。父親も青年時代は劇作家志望で、挫折して逓信省(のちの郵政省=現・日本郵政)に入ったという経歴の持ち主だった。

そういう両親のもとで育ったから芸術的センスも磨かれたのだろう……と思いきや、本人に言わせると親はむしろ反面教師だった。102歳まで生きた母親とは終生、折が合わなかったらしい。小学生のころ、亜星が童話『不思議の国のアリス』を読んで面白かったので母に勧めたときには、いきなり頭をぶたれ、「世の中に不思議なことなんてない。物事はもっと科学的に考えなさい」と怒られたという。彼はこれに反発し、その後も江戸川乱歩の小説などに夢中になった。

母が「科学的に考えなさい」と言ったのは、夫(亜星の父)が実家の病院を継がなかったので、夫婦ともども息子には医者になってもらいたかったからだ。それゆえ、やがて亜星が音楽に夢中になり始めると両親は快く思わなかった。一方で妹のみづえは絵とバレエを習わせてもらったので、彼は不公平感を抱いたという。それでも親の願いに応えるべく、猛勉強して慶應義塾大学の医学部に入学するのだが。

亜星が音楽にのめり込んだのは、慶應義塾の普通部(中学)時代にさかのぼる。それまでにも、幼少期より人気歌手の二村定一の「アラビヤの唄」などアメリカのジャズソングを訳詞したカバーに親しんではいた。だが、敗戦後、NHKや米軍向けのラジオ放送でどっと流れ始めた本場のジャズは、それまで日本人がジャズと思っていたものとはまるで違い、カルチャーショックを受ける。

これに触発され、さっそく同級生らとバンドを組んだ。慶應ではハワイアンが盛んだったので、演奏形態はハワイアンで、やる曲はジャズという不思議なバンドだった。校内の文化祭だけでは飽き足らず、米軍のクラブにも出向いて演奏したところ、少年たちのバンドという物珍しさもあって思いのほかウケたという。だが、学校にバレて1ヵ月の停学を食らう。怒った父親にはギターを燃やされてしまった。

それでも音楽への思いは断ちがたかった。慶應高校に進学すると、同じクラスにやはり長じて作曲家となる林光と冨田勲がおり、昼休みはひたすら音楽談義をした。クラシックに関心が向くようになったのもこのころだ。きっかけは、音大出身の若い音楽教師からコーラスを勧められたことだった。当初はあまり気乗りしなかったが、やっているうちに譜面も読めるようになる。高校3年のときには慶應の女子高と一緒に音楽同好会(のちの楽友会)をつくり、混声合唱をやった。このとき、先生に言われて初めて作曲も経験する。「ホーム・ソング」というその作品は割合評判がよく、曲をつくる面白さを知ったという。

大学に進学してからは、楽友会の友達とバンドを組み、米軍の女性専用クラブの専属となった。大卒の初任給が8500円ぐらいの時代に、1回演奏すると3000円ももらえ、かなり稼いだ。クラブでは客からスタンダードナンバーをリクエストされることも多く、暗譜してどんな曲にも応じられるようにしなければならなかった。この経験が作曲家になったとき、ずいぶん役に立ったという。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

since1979tkd これとても良い。あとでちゃんと読む。 https://t.co/vnprbIWXoU 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

yomoyomo 《でも、どこかでバレてしまうんです。俺の「幸せ感」の基にある、俺の人生の悲壮さが(笑)。だから俺の曲は、明るそうで、なんか寂しそうになるんですよ。その度合いが強いのか、隠そうとしても、隠せない》 https://t.co/9SUFTNrTOY 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

small_books 近藤正高さん @donkou のcakes連載「一故人」の最新記事が更新されました。 https://t.co/P7c1MxrLks 単行本『 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

Kusaby 高校の合唱団の創設者でもあった方。医学部だったんか😱 約2ヶ月前 replyretweetfavorite