数年間コツコツと書き進めてきた小説の新作が、ようやく6月に出版された。
コロナ禍やその他の事情で発売が延期になったとはいえ、このご時世に紙の本が出版できるのはとてもありがたい。事前に30代~50代のモニター読者を数十名募集し、なんと全員が絶賛してくださった。詳しくは帯コピーを参照していただきたいが、とにかく幸運だし、幸福だった。
やっと作品が日の目を見たのだ。苦労など一瞬で吹っ飛ぶ。
はずだった。私は幸運で幸福のはずなのだ。頭ではわかっているのに、心はそれを認めなかった。私はひたすら不運で、不幸だった。傍から見れば華やかな状況だと十分すぎるほど理解しているからこそ、つらかった。新潮社からいち早く見本が届いても、箱を開ける気すら起こらない。渋々開封して、産声を上げたばかりの本をろくにさわりもせず、そそくさと本棚にしまう。一連の行為はまるで、自分の子供を虐待しているかのようだった。
なんでこんなにうれしくないのだろう、と夜中に(うれしくないのがつらすぎるので眠れない)延々と考えた。理由のひとつは発行部数が少ないことだ。生みの苦しみがものすごかったにもかかわらず(いえ、どの作家さんも血反吐を吐くほど苦しんでおられます)、読者の元に行き渡らないジレンマ。いろんな意味で「残念で賞」という印を押されてしまったような、作品に対しての申し訳なさ。「いたらない母でごめんなさい」と子供(本)に謝りたいけれど、そうしてしまうと残念印と至らなさの両方を認めてしまうことになるので、できない。
twitterのエゴサがさらに自分を苦しめる
出版に限らず、音楽や映像の配信、テレビドラマ、創作にはこういった精神のアップダウンはつきものだ。コロナ禍の影響もあり、どの業界も不況で流通も低迷していると思う。私に限らず、しかたがないのだ。と、わかってはいる。私などまだまだ甘いのだ。頑張りが足りないんだよ、頑張りが!