我が家の基本定食。海苔好きなので私の中では間違いなく豪華版です。この心境に至れば炊事などいかほどのこともなし
前回、家事をやめるための原則として「便利をやめる」ことを提案させていただいた。
世の常識とは真逆の提案だと思う。真逆すぎて、家事云々以前に拒否反応を引き起こしかねない気もする。しかし、この程度でギョッとするのはまだ早いのだ。何しろ、世の多くの人を悩ませまくっている家事が人生から消えるなんてことは、これはもう間違いなくある種の「革命」でありまして、小手先のノウハウだの便利グッズなどで家事がラクになるのなら、この世から家事問題などとうの昔に消滅。問題はもっと根深いのであります。
つまりは、あなた自身が疑いもなくしがみついている常識の中にこそ問題は存在するのだ。革命とは価値観をひっくり返すこと。慣れ親しんだというだけで従来の価値観を無自覚に抱え込んでいては「ノー家事」の桃源郷に達することなどできるはずもない。なのでこんなところでビビっていてはいけない。いやナニそんなに心配することはありません。常識なんぞエイと飛び越えてしまえば拍子抜けするほどどうということはないものだ。もっと軽やかに自由に生きようではないか!
と勢いをつけたところで、今回はさらに大胆な提案をさせて頂く。
ノー家事生活に欠かせないこと、その2。
それは「人生の可能性を広げない」ことだ。
「可能性」が人生を台無しにする?
……勢いはつけてみたものの、我ながら、さらに読者の方を一気に失いそうな提案である。何しろ、もし現代人の好きな言葉ランキングってものがあったとして、先に書いた「便利」が5位くらいだとすれば、個人の価値観がどれほど多様化しようとも、トップを争う勢いで間違いなく誰もが愛する言葉が「可能性」なんじゃないだろうか。
可能性とは、万人に開かれた夢だ。持てる者も持たざる者も、あれもやりたいこれもやりたいと夢見るのは自由である。いつかは望むものを手にできるかもしれないという可能性こそが、多くの人の思うに任せぬ人生を支えている……ということを承知で、あえて言わせていただく。
「可能性」は危険だ。その取り扱いには十分気をつけなければいけない。甘い香りに誘われるがままに飛びついていると、甘い夢を追いかけているはずが、いつの間にか自分の人生を丸ごと何者かに乗っ取られてしまって、人生のあまりにも多くの時間を終わりなき労苦(家事)に捧げ続けて生涯を終えるということになりかねない。
具体的に言おう。
これは、生まれてこのかた延々と可能性を追い求めてきた私の物語である。