わかる日本書紀

出来の悪い外交官がもたらした失態で領土を失う【第26代⑨】

ややこしい日本書紀をわかりやすく紹介した書籍『わかる日本書紀』シリーズ第3巻から、日本の正史を学ぶ連載。今回は第26代、継体天皇の御代のお話。

ケナノオミを韓国(からくに)に派遣②

★前回のお話→「使者として派遣先に行くと下っ端が来るなとキレられた【第26代⑧】

クチフレとミドリは、心に畏怖の念を抱いて、おのおの帰国して、王に召集に応じるように伝えました。
そこで、新羅は改めて、上臣(まかりだろ)・イシブレチ(伊叱夫礼智)※1干岐(かんき)を派遣し、兵三千人※2を率いてやって来ました。そして、勅命を聞きたいと願いました。
ケナノオミは、遥かに、武装した数千人の兵団が包囲しているのを見て、熊川から任那の己叱己利城(こしこりのさし)※3に入りました。

イシブレチは、多多羅原(たたらのはら)※4に陣を構えて、帰らず待機すること三か月、しきりに勅命を聞きたいと請願※5しましたが、ケナノオミは、どうしても伝えませんでした。
イシブレチが率いる兵士たちは、村落で食料を乞おうとして、ケナノオミの従者・河内馬飼首(こうちのうまかいのおびと)ミカリ(御狩)※6の家に立ち寄りました。
ミカリは他の家の門に入って隠れ、兵士が通り過ぎるのを待って、拳骨(げんこつ)を作って遠くから殴るまねをしました。

兵士はこれを見て、
「謹んで三か月も待って勅命を聞こうと願ったのに、いっこうに伝えようとしないまま、勅命を聞く使いを悩ませてきた。
やっとわかったぞ。だまして上臣を殺そうとしているのだ」
と言って、見たまま詳しくイシブレチに報告しました。
イシブレチは、四つの村※7を奪い取り新羅に帰りました。
「多多羅などの四村を奪い取られたのは、ケナノオミの過失だ」
という者もありました。

九月、大臣・巨勢(こせの)オヒト(男人)が、亡くなりました。

二十四年二月一日、天皇はこう詔しました。
「神武天皇、崇神天皇以来、歴代の天皇は皆、博識の臣下や明哲の補佐に頼ってこられた。
ミチノオミ(道臣)※8の意見によって、神武天皇は隆盛をきわめ、オオビコ(大彦)※9の計略によって、崇神天皇は隆盛になられた。
皇位継承をしていく君主として、中興の功を立てるためには、昔から、どうしても、賢哲の策謀に頼らなければならない。 さて、武烈天皇が天下を治めた時代には、幸いなことに先代の善政の影響が続き、泰平の世が長く続いたが、民は眠ったようになり、政治は衰退して改まらない。
ただ、それぞれ能力のある者が出てくるのを待つばかりだ。

優れた知略のある人に対しては、短所をとやかく言わず、優れた才能のある人に対しては、その過失を責めてはいけない。
それによって、国家を継承し、安泰に保つことができる。
こう考えると、どうしても優れた補佐が必要だ。
私は、皇位に即いてから、今年で二十四年になる。
天下泰平で、内外に憂いなく、土地は豊かで穀物はよく実っている。
ひそかに恐れているのは、民がこれに慣れて、驕(おご)りの気持ちを起こすことだ。
それゆえ、清廉(せいれん)な人を推挙させ、大道を示して徳政を流布させよう。
才能のある人を得て官に任用するのは、昔から難しいとされている。我が身に至っては慎まなければならない」

※1 イシブレチ
後の任那滅亡時の責任者。

※2 兵三千人
新羅からすれば、わざわざ王が出向く必要もないと考えてクチフレを遣わしたにも関わらず、あえなく追い返された。今度はイシブレチを派遣。武力を誇示して聞き出そうとしたのだろう。ケナノオミの外交手腕が問われるところなのだが。

※3 己叱己利城(こしこりのさし)
韓国慶尚南道昌原の城。事実上の撤退。

※4 多多羅原(たたらのはら)
洛東江の東岸。いつでも任那に対して軍事行動に出られる位置。

※5 請願
原文「請」なので請願で間違いないのだが、実際は武力による要求だろう。ここも日本を中心とした書き方である。

なぜ、どうしても伝えなかった?
外交官としての能力の低さの露呈。常に自分の方が上位にいると勘違いする政治家は昔も今も多い。

※6 ミカリ
ケナノオミの腹心の部下。

※7 四つの村
事実上、この四村を失ったことで任那は滅亡したと考えられる。

※8 ミチノオミ
八咫烏の先導で神武天皇を宇陀に導いた功臣。「兄は全滅…苦難を乗り越え神武天皇、奈良県へ【初代②】」参照。

※9 オオビコ
道であった少女の歌に不吉を感じ、崇神天皇に報告。その歌がタケハニヤスヒコの謀反を示していることが分かり、崇神天皇の安定した御代を導いた。「眉目秀麗、頭脳明晰な垂仁天皇の即位【第11代①】」参照。

◆右富実先生のなるほど!豆知識

・任那
任那という文字列が初めて登場するのは、中国の吉林省に残る好太王碑(広開土王碑―四一四年)である。「任那加羅」と出て来る。「任那の中の加羅」なのか、「任那と加羅」なのか、ここから説が割れる。
『日本書紀』では加羅などの韓半島南部の小国群の総称を「任那」としている。
そもそも「任那」をどうして「みまな」と読むかもわかっていない。わかっているのは、倭国の勢力が何らかの形で影響を及ぼしていたこと、五六二年(欽明二十二年にあたる)に新羅に滅ぼされたことである。
わからないことだらけのこの状況、日韓朝の三国の研究者が合同で研究すればどうにかなるかもしれないが、今のところ夢物語である。

★次回更新は7月26日(月)です。


日本のはじまりを知る。

この連載について

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わかる日本書紀

村田右富実 /つだゆみ /村上ナッツ

『日本書紀』は神代から第41代持統天皇の時代までを扱った日本最古の歴史書です。しかし本文は漢文、全30巻と長く読解は難しいため、正史ながら読んだことのある人はほぼいません。そこで、劇作家が書くわかりやすい文章と、親しみやすいキャラクタ...もっと読む

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shignakk #スマートニュース 「たたら製鉄」は多多羅原からもたらされたのかな? 4日前 replyretweetfavorite