新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界を震撼させてからもうすぐ1年半。相変わらず次々と現れる変異株によって私達の生活は大きく制限されたままです。
さて、最初に私のことを少し。夫の仕事で渡米してから15年弱、ほぼほぼ専業主婦をしていますが、それ以前は消化器外科や病理が専門の医師でした。夫は日米の呼吸器専門医でありアメリカの集中治療室(ICU)専属の医師。2020年3月からほぼ途切れることなく、COVID-19の最重症の患者さん達のために働いています。
現在ピークは過ぎたものの、夫の職場であるICUはCOVID-19の患者さんがひっきりなしです。つまり夫は連日「超濃厚接触」する場所で働いていますが、その夫と私達家族はこの1年強一つ屋根の下で暮らしています。現場の細かい感染防御法はもちろん特殊ではあるのですが、今回皆さんにお伝えしたいのは「感染者との接点があっても、予防する手立てを考えることは不可能ではない」ということです。
それからもうひとつは、長引くCOVID-19との付き合いの中でどうやって個々の健全な精神状態(メンタル)を守っていくか。COVID-19と共存せざるを得ない社会はまだしばらく続くと個人的には思っていますが、ずっと緊張の糸を張り詰めたままの生活はメンタルが参ってしまいかねません。
もちろん感染を拡げない取り組みが大前提ではありますが、同時に「できることを増やしていく」姿勢で心を守ることも必要で、それがひいては社会の中での理不尽な差別やイジメを減らすことにもつながるのではと私は思っています。お互いに優しくなれる社会へ移行していけたらいいなぁというのが心からの願いです。
私は基本的に何事にも楽観的なのですが、それは考えることからの逃避ではなく、できることは全てやった上であとはジタバタしてもね、という姿勢です。この楽観主義が社会でいろんな考えをもつ人達を受け入れ、自分の心も守る鍵なんじゃないかなと思っています。
日進月歩の医学の中でもこのCOVID-19関連の知識はどんどん書き足し・直されています。けれど変わらないことが2つあって、1つは医療の最先端研究の理解と一般への応用はある程度プロに任せるしかないこと、そして2つめが一般の私達がやれることは基礎原則さえ押さえれば、実はいつもあまり変わらないのだ、ということです。
第1回は実際私達がやっている日常の予防を少しご紹介します。これが正解、ということではなく、現時点での一例、あるいはヒントとして受け止めていただければと思います。
医療従事者の考えるキレイと汚いの境界
医療従事者と一般の方の間には基本的な考え方が共有されていないための誤解や上手く伝わらないことは時々あるのですが、このコロナ禍で大事だなと感じたことが「キレイと汚いの境界」です。ただ知っているか想像できるか、くらいの小さな小さな差ですが、「よく分からないからもういいや」が減り、家庭にウイルスを持ち込まない基準が自分の中で作りやすくなると思うのです。
まず、「ここにウイルスがいても(感染源となっても)おかしくないところ」=「汚い場所」、そうでないところを「キレイな場所」と便宜的に呼びましょう。 医療者と一般の方との大きな違いは、この「キレイな場所」「汚い場所」のあいだに仮想線を引いて、同じ場に居る人と仮想線の共有をすることで、「キレイ」をできるだけ保とうとすることだと思います。
分かりやすく例えれば「靴を履いていて良い場所」「靴を脱がなければいけないところ」を区別しているイメージです。「靴を履いていて良い場所」はウイルスが多少紛れ込んでも仕方ないところで、最終的に自分の体内に入りそうなマスクや手に気を使います。一方で「靴を脱がなければいけないところ」では、ウイルスが入り込むのをできる限り防いで、安全に過ごすことのできる「キレイ」な場所にしようと意識します。
医療現場では「キレイな場所」「汚い場所」の境界線を引くと書きましたが、さらに場所によってその境界線ルールの厳しさは違います。「外来」のように一般の人が頻繁に出入りするところと「集中治療室」「手術室」のような、より皆の心配りを必要とする場所、さらに「無菌室」のような医療者視点でキレイと汚いをきっちり区別すべき場所、というように。場所の目的で「キレイ」のレベルが全く違い、逆に言えば全部で同じキレイのレベルを保つ必要は全くないということです。
これを応用すると「自宅は無菌室レベルである必要はないけど、そこで動き回るのは基本的に安全って思えるところにしたい」となるのではないでしょうか。すると、帰宅したら洗濯できるマスクは洗濯機へすぐ入れる、手洗いを必ずする、玄関のドアノブは時々拭き取る、などの行動が決まりますよね。
このウイルスを前に一般社会の私達が混乱する要因のひとつは、どこで、どこまでの「キレイ」を要求するのか、ということが全員同じではないからと私は思います。自分の思う境界線を越えたところに線を引いている(と思われる)、つまりキレイに保ちたいところに「汚い」を持ち込む他人には怒りが湧くし、逆に線引きできていない、線引きを考えていないひとを見ても嫌になったりします。一方で「厳しいひとに怒られるかもしれないから」と自分のひく境界線とは違うのに無理に我慢すればメンタルが辛くなることもあります。
絶対の正解がないからこそルールの基本を抑えつつ周りを思い遣る気持ちを持つのも大事かなぁと思います。この辺りは次回以降詳しく書いていきます。
集中治療医を家族にもつ私達の日常
では日常生活ではどこにキレイと汚いの境界をイメージするか、我が家の例をご紹介します。とは言ってもやっていること(やらないこと)は基本的に皆さんの生活と何ら変わりません。
COVID-19がアメリカで問題になってから我が家の家庭内のキレイの共通認識が固まるまでは1ヵ月強必要だった感じです。家人が健康であるために、最初はキレイであるべき家の中に「外から持ち込む可能性」を減らすところに集中しましたが、それはとても神経を使う行為でした。
最前線で最重症者と接する夫がいて、私達家族は大丈夫なのか。最初は経験したことのない怖さが常に目の前に突きつけられている状況でしたので、自宅にウイルスを入れないためには全員の行動範囲を狭めるのが一番簡単でした。私と子供達は基本外出せず、夫もしばらくホテル住まいをしたのです。でもすぐ分かったことですが、怖さで皆が凍り付いたようなそんな生活ではメンタルが持ちません。
2020年3月当初は家の中も常にウイルス除去のウェットペーパーで1日最低1ー2回拭いてまわっていました。車に乗ると消毒ジェルを使い、車のハンドルやドアノブもこまめにウイルス除去用ウェットペーパーを使っていました。生活のどこまで厳格さが必要か迷いながら、夫は帰宅するとシャワー室に直行して、服は全部そのまま洗濯機の中へ入れていました(他の洗濯物と一緒に洗って大丈夫!)。手洗い励行が言われたときお聞きになった方も多いと思うのですが、コロナウイルスには細胞膜のようなものがないので、理論上は普通の石鹸・洗剤で表面の膜は壊されます。
今も夫は仕事から帰るとほぼ同じことをしていますが、以前より良い意味で「ルーチン作業」です。帰宅したら手洗い、できたら早めに衣類を交換する目的でシャワーを浴びます。そうそう、布マスクは帰宅したらすぐ洗濯機へ、もルール。使い捨てのものは家の外のゴミ箱に捨てます。私も子供達も、帰宅後 布マスクは洗濯機、使い捨てマスクはそのままゴミ箱へ、そして手洗い・・・という感じ。夜にシャワーを使うときに服は洗濯機へ。
とりあえずこれが「集中治療医を家族にもつ私達の日常の予防」です。
「え? それだけ?」
がっかりさせたらすみません。でも少し特殊な環境の我が家でも、一般に言われる原則「それだけ」を繰り返すことで健康な生活を続けている、というひとつの実例になりますよね。 次回は私個人が新型コロナウイルス感染症に対して感じる怖さということについて書こうかと思います。
文章には必要なところで日時を記載していきます。今この未知のウイルスについてはなにもかもが「途中」だから。書いた時期とすこし時間があいていて不安な場合は厚労省もしくはアメリカ疾病予防管理センター(CDC)、世界保健機構(WHO)のページで確認いただきたいと思います。
新型コロナウイルス感染症について|厚生労働省
CDC Coronavirus Disease 2019 (COVID-19)
WHO Coronavirus disease (COVID-19) Pandemic