イワイの反乱と、その鎮圧①
二十一年六月三日、近江のケナノオミ(毛野臣)※1は、兵六万人を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(ありひしのから)、㖨己呑(とくことん)※2を復興して、任那に合併しようとしました。
ここに、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)・イワイ(磐井)※3は、ひそかに反逆を企てていましたが、ぐずぐずと実行しないまま年を経て、計画が未遂に終わることを恐れながら、常に隙をうかがっていました。
新羅はこれを知り、ひそかに賄賂をイワイのもとに送って、ケナノオミの軍勢を妨害するように勧めました。
そこで、イワイは、肥国、豊国の二国に勢力を拡大し、朝廷の仕事をさせませんでした。
外に対しては、海路をさえぎって、高句麗、百済、新羅、任那※4の国の年ごとの朝貢の船を誘い入れ、内に対しては、任那に派遣するケナノオミの軍勢をさえぎり、乱暴な言葉で、
「今でこそ使者に立っているが、昔は我が友として肩をすり寄せ、肘を触れ合い同じ器で共に食べたものだ。
急に使者になったからと言って、私をお前に従わせることなど、できるものか」
と言いました。