喫茶店が静かになった
この日本で新型コロナウイルスが感染拡大してから1年程が経つが、あらゆる場所がとても静かになった。1日に1回は喫茶店に出向くが、これまでの店内の平均発声ボリュームを「10」だとすると、今は「3」くらいになっている。この、「3」くらいの状況下に「15」くらいの人がやってくると、かつての「10」の時ならまだ許せても、今では、なぜこんなにとんでもなく大きな声を出すのか、と冷たい目線を浴びてしまう。とにかくクリアに話の内容が耳に入ってくる。
「声の大きい人を信じてはいけない」
コロナ禍では、大声を張り上げて、その場のテンションを強引に底上げするような場所が少なくなった。行かなくてよくなったし、うっかり遭遇することも減った。正直、その状態に心地良ささえ覚えてしまうのだが、人の命を奪い続けるコロナ感染の収束と比べられるはずがない。一刻も早く、あのうるさい日常を欲する。たがしかし、「喫茶店、静かだな」という感想というのか感触というのか、それ自体を抑えるのも無理な話である。
声の好き嫌いというのは人それぞれだが、自分は、「こちらが設けている壁を一瞬で破壊して侵入してくるような強い声」がどうしても苦手で、具体的な意味でも、抽象的な意味でも、「声の大きい人を信じてはいけない」なんてフレーズを見かけると、本当にその通り、と思う。街中で恫喝に出くわせば、数時間は引きずる。テレビをつけると、とにかく大きな声が飛び込んでくる。バラエティ番組ならば、0.5秒の反応の遅れが、その出演者の評価に直結するのだから致し方ない。BGMはそのテンションに合わせてくる。ニュース番組でも、内容をしっかり正確に伝えるという意向は、どちらかというと、声を大きくする方向へ向かう。
声の小ささとイメージ
今、観ているドラマのうちの2つ、『生きるとか死ぬとか父親とか』『今ここにある危機とぼくの好感度について』に國村隼が出ている。前者は、ラジオパーソナリティ・蒲原トキ子の父親役、後者は帝都大学の理事役だ。どちらも、國村が発する声は基本的に小さく静かだ。『生きるとか~』では、娘・トキ子に突っ込まれる形で、言い訳のような言葉を吐く。『今ここに~』では、トラブルを隠蔽したがる大学の体質を象徴する存在として登場し、一言二言述べて、あったことをなかったことにしようとする。異議申し立てを、ゆっくりと、確かな圧で潰していくのだ。